法教育素材の紹介7 映画「キューティー・ブロンド」

 「キューティー・ブロンド」は、世界興行収入1億3千万ドルというビッグ・ヒット・コメディ映画です。
法教育に真剣に取り組んでおられる先生方。ちょっと肩の力を抜いて、こんな気楽な映画もネタになるのかと楽しんでいただけたら幸いです。

「キューティー・ブロンド」(原題:Legally blonde)
  ロバート・ルケティック監督  アマンダ・ブラウン原作
  リーズ・ウィザースプーン主演
  2001年アメリカ映画 96分
MGM DVD(20世紀フォックスエンターテイメントジャパン株式会社発売) 

〈あらすじ〉

 主人公エルは、とある大学のファッションビジネス専攻の学生。お金持ちの両親に愛され、学内女子社交クラブ「デルタ・ヌウ」の会長を務める、ブロンド美人です。卒業後は恋人のワーナーと結婚することを夢見ていたのに、政治家志望の彼は「政治家の妻にブロンドはふさわしくない」と言って、彼女と別れハーバード大学ロースクールへ行ってしまいます。
 ワーナーを取り戻したいエルは、一念発起。猛勉強して、自分もハーバードへ見事合格。ワーナーに再会しますが、彼にはもう黒髪の婚約者ビビアンがいました。それでも諦めないエルは、勉強で彼らを見返してやろうと頑張ります。4人の優秀な学生が、法学部のキャラハン教授が営む弁護士事務所で実習をする機会を与えられることになり、エルとワーナー、ビビアンも選ばれました。刑事裁判はエルの大活躍で勝利。ワーナーの心はエルに傾き、キャラハン教授には言い寄られ、エルはどうするでしょう?本当のエルの価値を認めてくれるのは誰なのか。エル自身はどう生きていきたいのか。

〈ブロンドはセックスシンボル〉

 黒髪ばかりの日本人から見ると、米国では「金髪はセクシーで頭が弱い、黒髪は聡明」というイメージが広く行き渡っているといわれても、実感が湧かないのではないでしょうか。映画のそこここには繰り返し、ブロンドのイメージを表現する台詞が現われます。
エルにドレスを売りつけようとする店員は、彼女の外見だけから「おばかな金持ち娘」と陰口をささやきました。(それに対し、エルは布地や縫製技術の正確な知識と流行に関する情報で、店員をやり込める知性を披露するのです。)
エルに別れ話を提案するワーナーは、「政治家の妻は、モンローではなくジャッキーでなければ。もうチンタラやってられないから。」と言い、エルは自分は「チンタラする相手」だったのかとショックを受けました。
ハーバードの同級生には、「勉強会よりお遊び会がお似合いよ」と言われました。せっかく優秀な成績で裁判実習に選ばれても、キャラハン教授には彼女を自分の事務所に雇うから仲良くなりたいと言われ、下心があったのかと愕然としました。エルは「ブロンドは差別される」、「誰も自分をセックスの対象としか見てくれない」と絶望しかけます。

〈ロースクール生も差別される?〉

 映画の中では、ロースクール生もステレオタイプなイメージが与えられているようです。エルのパパは、「ロースクールなんて、ガリ勉のブスの行くところ」と言いました。ハーバードのキャンパスでは、ロースクールの同級生男子が他学部らしい女子学生をデートに誘おうとして、自分はロースクール生だと言いますが、あっさり断られてしまいました。「あんたみたいなボケナス」とまで言われていますが、男子もロースクール生なら女子にもてるかというと、そうではないようです。

〈女性全体への固定観念〉

 キャラハン教授の事務所で実習中、エルの人柄に心を動かされ始めたビビアンは、「教授は男子にはコーヒーを頼まないのに、私にばかり頼む。」と、彼女に不満を漏らします。エルと「ワーナーは下着も洗濯屋に出す」事実を確認し合い、意気投合。裏返せば、米国でもお茶を入れたり、洗濯したりすることを、男性は嫌がる人が多いということでしょうか。日本から見ると「進んでいる」ように見える米国でも、やはり家事は女性に押し付けられがちなのかと感じられます。

〈固定観念と差別の境界は?〉

 「差別はいけない」ということは、誰でも共感できるでしょう。けれど、「ブロンドはセクシー」という観念そのものは差別とは言えなそうですし、「セクシーな女性は、男性から言い寄られることが多い」のも無理からぬことではないでしょうか。「ロースクール生はガリ勉」とか、「家事は女性がする」というような観念も、それだけでは直ちに問題になることはないでしょう。
しかし、「ブロンドはセクシー」という固定観念のせいで、エルは他人や両親からさえも「本当の自分」を見てもらえないと、悩みます。固定観念と差別の境目は、微妙なところにあるのではないでしょうか。本人が迷惑をしていない間は、固定観念は問題にならないでしょう。ブロンドのイメージによって「恋人に振られた」りすると、迷惑して悲しく、差別を感じることになるようです。さらに、ブロンドであるために、就職と引き換えに採用する側と個人的に「仲良くする」よう迫られたりすると、とても迷惑です。「家事は女性がする」ことも、一世代前の日本では当たり前でしたが、今では男女共同参画の潮流に反します。
このように固定観念と差別の境界をみてみるとあいまいで、人の心の動きや行動によって揺れ動くものであるように思えます。映画で固定観念をひっくり返そうと張り切るエルの姿を楽しみながら、「差別をせず、公正であること」の意味を考えられるのではないでしょうか。

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