「法学教育」をひらく(第4回) 髙橋眞先生 その2

4 本書第1章の「日本近代史(戦後史)入門」としての意義


大村:
「日本的法意識論についてはその後、別の合理的な理由があるという観点から議論がされ、歴史的な展開の説明には向かわなかったといえますが、日本人が権利を主張しないことについて、髙橋先生が提示された考える筋道は、日本社会の推移、そこに働いていた力を取り出すという方向になっていると思います。それが法について考える際、基礎として意義があるのではないかと考えます。社会の動き方とそれに影響を与えている事情との関係で、法がどのようになっているかという意識が強いアプローチだと思います。先生ご自身、そう意識されてのことかお伺いしたいと思います。」

髙橋:「川島先生の法意識論のお蔭で、日本人ビジネスマンがアメリカ社会で迷惑しているという話を、道田信一郎先生が『契約社会:アメリカと日本の違いを見る』注1で書かれています。アメリカの社会と日本の社会を対比するのでなく、それぞれの社会で生じている具体的な問題に対して、それぞれの社会で処方箋を出すことが大事であると書かれており、これを押さえておくべきだと感じました。道田先生は、問題の認識を処方箋を求めるための出発点とするという実践的なあり様を示されたと思います。文明論になってしまうと役に立たなくなるのであって、現実の問題は何か、それにどう取り組むかということが大事だということです。
 そうしますと、法を使いこなし、さらに生活上必要な法・制度を獲得する主体として行動できるようになるためには、何が必要かを考える。第1に、自分たちが何を望むのかという「目的」を明らかに把握すること。第2に、その目的を実現するために、現在ある社会の何に働きかけ、これを変えていく必要があるか(「対象」)を明らかにすること。ここが社会科学的認識にあたると思います。第3に、その変化をもたらす条件がどこにあるか、その条件のもとでどのようにして変化をもたらすか(「方法」)を明らかにすること、が必要です。この第2・第3の要素は、社会科学による認識を通じて把握する必要があります。距離を置いて比較しておしまい、ということではありません。目的を明らかにし、これを実現するために社会科学を活かすべきだと考えます。
 その場合、近代史(戦後史)を学ぶことは、これまでに多くの人が生活上必要な法・制度を獲得するため、何に問題を感じ、どこまでの試みを行ったか、それが実を結ばなかったのはどのような条件によるものかという、対象・方法・目標のデータを学ぶことでもあります。歴史的な経験をデータとして把握し、これからの試みに活かしてゆくことに意義があります。
 実際に農民運動や労働運動、市民運動が展開されただけでなく、帝国憲法のもとで、議会内の議論が活発に行われていたことも、現在、改めて注目されています。十分に成功しなかった試みの経験を全面的に否定して、まったく新しい試みをしようとすることは、上述の「目的」を実現する実践的な活動においてマイナスであると考えます。方法としてのユートピア思想というか、初めから現状追随になるのではなく、まず「自分たちはこういうことを望む」ということをはっきりさせることが大事です。次に、その実現のための条件はどこにあるか、と考える。「なるようにしかならない」という言い方がありますが、それは同時に「なるようにはなる」ということを含んでいます。目標を一挙に実現する条件はないとしても、どう進めれば目標に一歩近づくことができるか、方向は間違っていないかと考え、なすべきことを見極めるのがよいと考えます。現在必要なのは、良質のリベラルな保守的態度、すなわち混乱を避けつつ改善を実現するために、最終的な「目的」を見据えつつ、どの点を改善の「対象」とするかを模索する態度であると考えます。そのためには、これまでの積極的な歴史的経験を確かめ、これに十分に学ぶことが基礎にならなければならないと考えます。
 このように、歴史的経験を実践的な行動のためのデータとして考えるときは、その具体的な内容と、その原因や背景を具体的に観察・分析することが必要になります。そのためには「意識」に問題を絞ることや、たとえば「日本的」という本質論的な観念によって色付けすることは、分析の対象を見えにくくしてしまう危険があります。」
大村:「ここでの文明論とは、思考停止に陥ってしまうということと伺いました。」

5 本書第1章の今日的意義

大村:「『日本人の法意識』が出版された60年代に比べると、70年代は、川島博士の問いが改めてリアリティをもって表れてきたと思いますが、先ほども触れたように、90年代の状況はまた違ったと思います。90年代の知のあり方を前提にしたとき、そこからさらに20年近く流れた今の人たちに法学教育をするとき、この本がどう生きるか、この本を出発点にしてどんな修正が必要かということを伺いたいと思います。」
髙橋:「出発点は現在の問題を問題としてとらえることです。法学を使って立ち向かうべき問題を問題として考えることから始めるべきだと思います。この問題はどうしてこうならざるを得なかったか、大事なのに無視していた様々なことを見てとる必要があります。公害問題は解決しなければならない問題であることがわかりやすかったですが、今は複雑に絡み合った問題が多く、ときほぐさないといけない。問題はどこでこじれていて、ほぐしていく条件はどこにあるのか。問題は何かが第1、問題のよって来たるところが第2。歴史的経緯を粘り強く見ることがスタートだと思います。」

大村:「戦後から70年代にかけて、ある種の社会・家族イメージが描きやすかったと思います。封建的家族イメージなどは相対的に見えやすかったわけですが、現代家族はどこに行くべきなのかと目標を考えたとき、今は家族や国家のあり方について、我々が共通の理解を得にくい時代だと思います。そのことは、社会科学的な色合いを強く帯びた法学論の中で、どんな位置づけになるでしょうか?」
髙橋:「何を望むかということについては、日々の暮らしを安心して営むことのできる場という点では、昔も今もおそらく変わらないと思います。それを妨げている条件を考えていく。現在ではたとえば、単身赴任が普通になっているシステムとか、長時間労働、収入の不十分さなどが見えてきます。家族のありようを考えた場合、かつて封建的なものが妨げと考えられたけれど、現在はそういった労働条件等が1つの障害になっているという例が考えられます。家族であれ、国家であれ、今を生きる個人にとって何を意味するのかをきちんと考えた上で、問題を現在の事実に即して分析することは可能と考えます。」

大村:「今のお話は、法学における利益考量論の存在意義と関わると思いました。利益考量論は、様々な法律論の前提となっている当事者の利益状況を明確にした上で、議論をしようという提案を含んでいました。先生は、問題状況に対する共通認識・目指す目標の共有がかつてない困難な状況であるとしても、前提となっている事柄について、共通の認識を深めることが議論をよりしやすくするというお考えを示されたように思われます。目標・方法を戦わせるとき、70年代であれ今であれ、同じものが出発点にあると聞かせていただいたと思います。」
髙橋:「経済政策がどうあるべきかというような大所高所の議論から始めると、議論の仕方もかなり変わってくるかと思います。しかし個人の生活をベースに置くならば、目標については決定的な違いは生じないのではないかと思いますし、その充実を妨げるものは何かという点については事実に基づく議論ができるのではないかと思います。世の中が変わったから目標や方法も変わらなければならないという話から始めると、そういった議論ができなくなってしまうと考えます。」

6 今日の法教育あるいは法学入門において何を教えるべきか

大村:「より広く、今日の法教育あるいは導入的な法学教育において、何を教えるべきかにつき、お考えをお聞かせください。」
髙橋:「1つは今のように、対象を見て方法を考えるという実践的なありようですね。もう1つは、法曹にならない人にも実定法の基礎を身に付けてもらうことが必要だと考えます。総合人間学部発足当時の総長は工学部出身でしたが、一般教育としての法学に何を期待するかという点について、エンジニアも卒業後は契約の場に接することになる。工学のエキスパートとしての活動だけでなく、顧客と接するにあたって契約法についての基本的な知識が必要となるので、1年生の時に話しておいてほしいと注文されました。確かにそうだと思い、課題の1つとして受け止めました。
 さらに、法科大学院発足後も法学部が必要だということに関連して、市民が法の専門家に丸め込まれないようにするリテラシーは、基本的な教養として必要であるという話をしたことがあります。交渉の場で、反論ができなくても納得しない、即答しないで、持ち帰って専門家に聞くこととする。このように立ち止まる能力です。法の基本的なルールというようなものはどうなっているかがわかり、少なくとも相手方の論の立て方は法のルールから見て逸脱であると自信をもって立ち止まることができる市民が、社会のそこここにいることが必要です。法の使い手は法曹だけではなく、生活者である市民でありますし、市民はさらに主権者として、政治のあり方について疑問をもつ能力を確保することが必要です。
 また、法は「技術」であるということを積極的に評価することが必要です。技術は、有効であるためには、その存在の基礎(法の場合は社会)を的確にとらえるものでなければならないとともに、内容が伝達可能であって、一定の訓練をすれば誰でも理解できるものでなければなりません。さらに法は論理でできているので、誰にとっても検証が可能である。そのような意味で民主的性格をもっています。専門家に対して、素人にわかるように説明できるはずのものであり、それができないのは専門家の怠慢であると切り返していくことができる力が、市民に必要です。」
大村:「今おっしゃったことの中で、必要なことが2つあったと思います。1つは実際に自分たちが直面する領域的知識の教育、もう1つは専門家に丸め込まれない法的論理の教育が必要ということと伺いました。後者は、知識と結びつかなくても、どの素材でも養うことができるように思います。
 最後に1つお尋ねしたいのですが、先生は法の論理、論理的におかしいと感じ取れる能力が必要だと言われました。同時に、法や社会に関わっていくという要素を重視されていますが、「変化」についてどういうスタンスを取るのがいいとお考えでしょうか?」
髙橋:「変化は、社会の中でさまざまな役割を果たしている市民が、それぞれの職業の場で感じることと思います。法学部では、紛争が生じてしまった局面で、それをどう解決するかという第三者的な立場から、主として裁判を念頭に置いて考えます。しかし、さまざまな職業の人が、それぞれの現場で、法や制度を使いながらそれぞれの目的を追求しています。法なり制度なりが桎梏になっている場合、法や制度をこう変えていかないと困るということを、それらを道具として使っている人たちが痛感し、道具そのものの改良を求めることになります。法が自己発展するのでなく、実際に使われている現場から変えていくことは、法の専門家の大切な仕事ですが、そのための最初の動きは法の専門家以外のところから出ること、これを専門家にぶつけることが必要ではないでしょうか。それぞれの分業の中で、ぶつけあい応えあうことが大事だと考えます。」
大村:「教育の場面でも法律家は非法律家の要求を聞き取る能力、非法律家は要求を伝える能力を養うということですね。」
髙橋:「法律家は、そのような要求を受けて法は変わりうるということを発信し、現在、何が問題なのかについての現場からのデータや要求を的確に把握した上で、法をどう変えるかに関して自分たちの専門的な力を使わなければならない。専門家以外の人に対して、法律は変えることができること、そのためには何が必要であるかということを発信する必要があると思います。」
大村:「そういう教育をする場が足りなくなっていると感じます。一般的な法学入門もあっていいけれど、それとは違うタイプの法学入門も合わせて提供できるという、それぐらいの懐の深さを持つことが、この先の法学部に必要ではないかと改めて思いました。ありがとうございました。」
   

日本的法意識論再考

日本的法意識論再考 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 髙橋眞 著
 A5判
 213頁
 2002年10月
 3,800円+税
 ミネルヴァ書房

 

注1:
道田信一郎『契約社会:アメリカと日本の違いを見る』(有斐閣,1987年)

 

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