法と教育学会 第3回学術大会 その2

 ひきつづき、2012年9月2日(日)に開催された法と教育学会第3回学術大会(会場:東京大学)から、午後の部の模様をお伝えします。基調講演につづき、パネルディスカッションでは4人の法学者が、法学の成果を法教育に取り入れることについて議論を展開しました。(当日のプリントより、適宜引用しています。)

1 基調講演(13:50~14:50)

「法教育における法律学の役割」

        那須弘平(弁護士、元最高裁判所判事)

〈自身の法学教育の取り組み〉

 1969年に弁護士になり、30数年間活動した後、最高裁判所判事を務め、再び弁護士に戻りました。その間、群馬県前橋市で私立の法律専門学校の校長を務め、法学教育にも携わってきました。この学校は1951年に設立され、当初は、地域で仕事をもち、東京まで出られないが勉強したい社会人のために法学を教えることを目指す夜間制でした。時代の流れに伴い、1988年に高卒者を対象とした昼間部を立ち上げました。「『治者の学問』からの脱却」を合言葉に、法の運用に着目する、議論する、覚えるのではなく自ら検索・調査能力を身につける、国際化に備えて英会話も重視する、という教育を行いました。1990年からは7回、模擬裁判を行いましたが、少子化により1997年に閉鎖することになりました。教える体制も不十分でしたが、専門学校より大学、地方より東京、教養より就職直結という状況に、早すぎたシティズンシップ教育だったかと感じています。教育は、やはり継続しないといけないと思います。

〈最高裁判所での経験から〉

 裁判官の仕事の中には、素人にはできないことと、素人にできること、素人にしかできないことがあります。裁判員には、素人にできることをやっていただきたいと思います。司法制度改革審議会意見書の中に、「公共性の空間」という言葉があります。最高裁判所の判決は、判決を書けばそれで終わりではありません。マスコミに伝わり、学者が専門誌で論評し、一般の人に伝わり、国民の意識にじわじわとしみていく。それがまた裁判官を支える力になって戻ってくる。それが次の判決を出すときの励みになる、というわけです。
 最高裁判所第三小法廷ではずいぶん議論をしましたが、意見が分かれると、原則に戻らざるをえなくなります。判事になってみて、原則を考える大学のありがたさがしみじみとわかりました。法の解釈学よりも、基礎法学が役に立ちました。

〈法律学と法教育〉

 小中および高等学校で法教育を行うについては、いくつか内在的制約が考えられます。① 法律学をそのまま教えるのは困難であること、② 時間的制約、③ 政治的中立性が保たれねばならないこと、④ 教員の法に関する資質が一定でないこと、です。大学の研究者の役割は、教員への協力、お手伝いだと思います。研究者の成果を法教育に取り入れるためには、選択と集中をどうするか、考えねばなりません。法教育の決定的なポイントは、教員の素養だと思います。法教育は片手間にできることではないので、大学法学部を卒業した上で教員になるか、教員がある程度法学を学ぶ(通信教育や放送大学、また職場内外でサークルをつくるなど)ことが必要でしょう。
 大学法学部の役割も見直さねばならないと思います。現場の教員への教育のほか、法教育に徹する法学部も考えられるのではないでしょうか。大学によっては、いろいろな形があっていいと思います。法律専門家も、自分の仕事を通じて国民の法的成熟度をどう高めるか、考えたいと思います。

 

2 パネルディスカッション(15:00~17:45)

「法学と法教育」

パネリスト
 森際康友(名古屋大学大学院法学研究科教授)
 戸松秀典(学習院大学名誉教授)
 河上正二(東京大学大学院法学政治学研究科教授)
 山本和彦(一橋大学大学院法学研究科教授)

コメンテーター
 吉田俊弘(筑波大学附属駒場中・高等学校教諭)
司会
 山下純司(学習院大学法科大学院教授)
 鈴木啓文(弁護士)

〈法教育と法哲学〉

森際:「法学教育に約35年間携わっていますが、高校を卒業して大学に入学してくる学生のもっている法イメージが不適切なものになっていると感じています。権力・正義・法のイメージが、戦前の「御法度」権力観だからです。ゆえに法教育のミニマム・エッセンシャルズがまだ決められない。その責任は、権力・正義・法についての正確な理解をもっとアピールしてこなかった法哲学者にあると反省しています。
 権力=悪という権力観では、権力は法を、自らに正当性を与えるための道具とする、いわば市民の敵です。その権力観は、批判的精神をもって権力を見ることとは違います。近代的民主主義においては、当事者だけによる紛争解決の暴力性に終止符を打つために、個人の納得や合意を超越する存在としての法と政治があります。市民が最も大切にしているもの(生命・身体・財産)の安全・安心を確保する合理的装置=法のありがたみがきちんとわかる教育を小・中学校から行うことが必要です。また、戦後の民主主義の中で十分に総括されなかった事柄を皆さんがきちんと概念整理した上で法教育にあたることによって基調講演で指摘されたような、法教育の内在的制約を乗り越えられるのではないかと思います。」

〈憲法・法教育への提言〉

戸松:「私は定年退職した昨年度まで、大学法学部での憲法教育を、講義・演習のいずれにおいても良き市民としての知性涵養を主眼として行ってまいりました。演習授業では、皆で真剣に議論すると、議論の前後で学生たちの考えが変化していくことがありました。死刑存廃論など、じっくり考えられるテーマを題材に議論するというのは法教育においてもいいと思います。。
 憲法・法教育では、具体例から始めるのがいいと思います。憲法規定を適用すると自動的に問題が解決するわけではありません。具体的な事例を積み重ねて、憲法のもとでどういう地図をつくるかということが重要なのです。たとえば「平等」や「自由な表現行為」などについて考えるためには、それに結びつく身近な例から始めるといいでしょう。憲法に関するテーマでは、一義的解答が得られないので、話す力・論述する力を養うのに最適ですし、考え方の多様性も認識することができると思います。多様な考えを引き出してほしいと思います。」

〈民法・法の教育と消費者教育〉

河上:「法律、民法というのはある種の素材であって、その素材をどう分析し、各当事者の利益と損失のバランスをとって、妥当な結論に向けて民事のルールを適用して一定の結論まで行けるか、それは先人の知恵のいわば結晶のようなものです。新たな紛争に対面した場合、その結晶をなぞって、同じような姿勢で対応する能力をつける、つまり、問題を分析し論理的に展開して一定の結論を正当化できる説得力を身につけることが大事だと思います。
 昨今は、民法の世界でルールのないような問題を次々と投げかけられるようになりました。生体肝移植の倫理などのような問題です。一般的なルールとするためには、声の小さな人に耳を傾け、きちんと手続きを踏まねばなりません。法的なセンスと鋭敏な人権感覚は、健全で民主的な市民社会の発展にとって不可欠な素養であり、それらを育むことはますます重要な課題になっているといえます。
 2012年6月に消費者教育推進法が成立しましたが、消費者教育は自分がどういうふうに生活したらいいか考える手法を身につける新しい鍵になると思います。知識をもってみずからを守ることも大事ですが、それ以上に、自分自身の生活のあり方を考える姿勢が大事であり、それが責任ある社会人としての資質を育むことになります。」

〈民事手続法教育の意義〉

山本:「まず、民事裁判と刑事裁判の区別をしっかり教えていただきたいと思います。民事は基本的に私人同士の対立であって、刑事のように構造的に原告・被告間に力の差があるわけではない。最終的に真実がよくわからなくても、どちらかが勝ち、負けることになります。
 民事手続法教育の意義としては、①手続的正義の価値を学ぶこと、②紛争解決の実践的な力をつけること、③権利救済のプロセスを理解すること、があると考えます。教える側からすると③で権利救済プロセスに関する知識を教えるのが一番楽なのですが、小中高等学校の法教育で重要なのは、①と②だと思います。
 ①については、たとえば、正しい解決が明らかに判明しているときに、不利益を受ける当事者に対して反論の機会を与える必要があるのかという命題を考えましょう。「正しい解決」というけれど、正しいかどうかというのはそもそも手続保障を与えてはじめて出てくるはずです。「明らかに判明」という点については、両当事者の言い分が矛盾しているようにみえても、それぞれの立場からすればそれなりに合理性があったりする。主張や立場の正しさというのは相対的なものなのだということを実感することが重要です。また、事実と主張の違いを認識し、第三者を説得するためには客観的な根拠が必要であることを理解してもらいたいと思います。これらを身につけることは非常に難しいですが、模擬裁判の形式で教材を作れる可能性はあると思います。②については、自分は何もしなくても誰かが正しく(自分に有利に)解決してくれるという、「遠山の金さん的訴訟観」が変わっていくことが望まれます。裁判所その他の紛争解決機関への過剰な期待と要求をするのではなく、紛争を自分たちの手で解決する力をつけることが必要です。」

〈コメンテーターから〉

吉田:「先生方のお話を伺い、法学と法教育はつながっているのか、断絶しているのか、ということを考えました。社会諸科学の成果と同様、法学の成果はストレートに教育の場に降りてくるのではなくて教育的な観点から再構成されると考えることができるのではないかと思いました。現場の教師は二重の課題を負っていると思います。自身の法認識を問い直す作業と、法学の成果を学んで、現場の教育に再構成する作業です。私自身が学ぶきっかけになったのは、法教育研究会の教材作成部会で、交通事故をテーマにした教材を作成しようとしたとき、現場の教師は結論の妥当性を重視しがちでしたが、法律専門家からはプロセス重視の思考の大切さを教えていただいたということがありました。 私が中高生に授業をするときに使わせていただいている本に、今日、パネリストでいらしている戸松先生の『プレップ憲法』。河上先生の『民法学入門』があります。両方とも、法的な考え方の基本が筋道立てて、事例を通して丁寧に解説されています。
 授業をどうしたらいいか考える場合のポイントとして、1つは法哲学という領域と、もう1つは手続法という領域があると思います。基本原理までさかのぼって考えることで法的問題の意味を理解するのが基礎法学としての法哲学、プロセスをきちんと踏む重要性を理解することで司法の理解が深まると思います。
 先ほどの先生方のお話の中で、身近な事例を教材にするとよいということでしたが、たとえば席替えをしたい生徒としたくない生徒がいる場合の席替えを教材にするのは難しそうです。専門家の目から見たアドバイスが欲しいと思います。」

〈席替えの問題へのアドバイス〉

森際:「席替えは難しいので、もう少しわかりやすい「姥捨て伝説」の事例で説明します。事例は、「親が70歳になったら山に捨てに行けねばならない、さもないと一家皆殺しになる。2つのうち、どちらを選ぶか」という問いですが、近代法がこれに与える答えは、「どちらも選んではいけない」です。むしろ、この問いの前提を問い直すことが正解です。「老人を捨てに行かねばならない」という事態の経済的分析をするのがはじめで、村の生産力を増大させることがというのがこの問題の正しいとらえ方になります。「私」の問題レベルでは悲劇的ですが、「私たち」の問題に転換することによって道徳的に是認できる解が出てくるのです。「私たち」の問題には、公共性の魅力があり、それを実現するには正義についての公共的確信と権力が必要です。法の魅力、近代国家と民主的な権力の魅力はここにあることが伝わるような授業を期待します。」
戸松:「憲法の議論では、しばしば倫理、道徳に関する問題になります。ある程度の寛容の精神が必要だということも出てきます。解決法は一つではなく、自分の意見を出し、みんなの意見を聞くという訓練を小さいときからやっていくことが必要です。」
河上:「席をもっとつくれるのなら別なところに席をつくってやればいい。それができないときは、じゃんけんなりで公平に決めるほかない。現在、限界があるならセカンドベストを選択せざるをえない。制度にはそういう冷たい部分もあると思います。また、価値の対立があるとき、何が正義か語り合う姿勢をもち続けることが大切です。人間社会の紛争は、財の分配かリスクの分配の問題が多く、法教育の素材にすべきものはたくさんあります。学校の先生は法律的正解を与える必要はありません。社会人としての常識的な解決を求めるプロセスをとることを、自信をもってやっていただけばいいと思います。」
山本:「教材づくりは学校の先生プラス法律家の協力があることが望ましいと思います。弁護士会や大学、法テラス、バーチャルな場でアイデアを出し合うフォーラムがあると望ましいという印象です。」

〈フロアから質疑応答〉

意見:「現場とは遠い世界。法学と法教育に大きな溝があると感じました。」(拍手少々)
河上:「厳しいご批判だと思います。学者は、特定の命題がなぜそうなるのか、なぜ正当化できるのかということに関心をもち、研究しています。現場はどう実践するか、応用を重視していると思います。法学は、抽象化が進んだときの答えを追求することで、法教育を支えていると理解してください。」

質問:「法教育と法学教育の違いは何ですか?」
戸松:「高校以下の教育は人格教育が目標です。大学にはそれがありません。法教育についても同じことが言えると思います。」

質問:「65歳以上の世代に対する法教育は必要ですか?」
森際:「人格形成途上の人に対するのとは違うと思います。」

質問:「中学校・高校の教科書では憲法や刑事裁判が中心になっていますが、民事的な法教育はどのように行ったらいいですか?」
山本:「このご指摘は、まさに私がお話したかったことです。使いやすい教材が少なく、結局、法知識のみに偏ってしまいがちかもしれませんが、教え方で工夫することもできます。その制度の存在意義、ルールがなぜあるのかを考えさせることによって問題の根本にさかのぼることができると思います。ただ、それも難しいことだとは思いますので、この学会などを背景にした教材づくりの仕組みができるといいなと思います。」

〈取材を終えて〉

 パネルディスカッションでは、現場の先生から法学と法教育の間の溝は深いと感じるという指摘がありました。午後の部を振り返ってみると、基調講演の中では、最高裁判所の判事時代、意見が分かれると原則に戻って考えざるをえなくなったというお話がありました。質疑応答の最後の山本先生のアドバイスでも、「そのルールがなぜあるのか」と考えることが、問題の根本にさかのぼることになるということでした。原則とか問題の根本にさかのぼるということは、人間社会の根幹を考えるということかと思います。そう考えて午前中の分科会の発表を見ると、「そのルールがなぜあるか考える」授業は、すでに実践されている例があるように思えます。それが法学と法教育をつなぐ第一歩であるように感じました。

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