高校教諭と労働法学者の往復書簡(3) 「労働法と経済」
『高校教諭』は、広島市立基町高等学校教諭の河村新吾先生、
『労働法学者』は、東京大学大学院法学政治学研究科教授の荒木尚志先生です。
(右上の文字サイズを「中」にしてご覧ください)
桜桃の候 連日の雨も一休み、今日は久しぶりの青空です。歴史的建造物でもある東京大学では、赤門をスタートし安田講堂をゴールとする恒例のツアーのサービスが始まり、新たな賑わいをみせているのではないでしょうか? 静かな研究生活を犠牲にしてでも広く社会に開かれているところが東大の魅力です。
さて、荒木先生からの返信を何度も読み直しました。一つ一つの疑問に丁寧に答えてくださっていることがありがたく、またそのたびに新たな発見があり、勉強になりました。特に法学部出身の教員は、法律をわかったつもりで生徒にわからせたつもりになってしまいがちです。ほかならぬ私がそうです。憲法第28条の勤労者と労働基準法の労働者の定義が曖昧なままで混同し、自営業者と雇用者との差異だけの材料で教材をつくってしまいました。つまり部分的な知識で体系上の位置づけを視野に入れていなかったのです。その点、荒木先生は「多様な労働者の概念」を言葉だけではなく図示して丸ごとわからせてくれました。この手法に大いに習いたい思いです。法教育についていえば、とかく法学入門教育になってはいけない、という観念から精確な知識をなおざりにしてしまうところが私にあります。まず初心に戻ってコアになる知識の基盤を見つけるという私自身の法教育の課題の一つが見えてきました。ありがとうございます。
また失業者が労働者である、という意外な点に着目するよりも、「問題となっているのはどの法律の規制か、その法規制の目的は何かを踏まえて、その対象となる「労働者」に当たるかを判断する」というアプローチが重要であることを再認識させられました。自由で公正な社会を形成するには、問題解決を志向する思考法として改めて法教育の学びの必要性を感じました。さらに荒木先生より、具体的で発展的なアプローチが5つ紹介されました。
(1)契約の意義
(2)市民法だけでは不十分であることの歴史的事実
(3)システムによる解決の可能性
(4)勤労基準の法定
(5)労働条件設定
私は今回(4)勤労基準の法定に挑戦してみようと思います。そこで荒木先生に今回お聞きしたいことは次の問いです。
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実は本校では、修学旅行への取り組みとして、進路別研修というものがあり、私は経済や法学に関心のある生徒を担当しています。研修先としてそれぞれの関心のあるところに赴くという日が修学旅行中に一日用意されています。経済と法学ではそれぞれ違う学部に進学するかもしれませんが、広く社会科学ととらえれば共通基盤があり、また社会事象は相互に依存しているところから全体として探究できるよい機会であると考えています。経済からみた労働法、労働法からみた経済、どんな景色が見えるのか私自身、探求心を触発されました。今回は、そのクラス用に指導案を考えてみました。
法教育指導案
テーマ:「勤労基準の法定」
教材:「規制は上から下から、これって必要??」
対象学年:高校2年生
対象領域:総合的な学習の時間(公民科政治経済を基盤とする)
本時の目標:(公民科現代社会において需要と供給の原理が履修済であることを前提とする)現行の労働法では労働時間や最低賃金について労働者保護のために規制があるが、なぜそうすることが保護につながるのか経済の視点(需要と供給の原理)をゆさぶりとして生徒に考察させる。
主な発問・指示 | 予想される生徒の反応 |
○本日は労働法による規制について考えます 授業の後半は班学習です
◎教材Ⅰ(基礎知識の確認)の(1)~(3)の問いに各班で回答し終了したところから挙手してください
○労働基準法第1条を読んでみよう
・もし条文内で重要だと思う箇所にアンダーラインを引くとすればどこに線を引きますか? ・なぜ重要だと思ったのか、あわせて答えてみましょう
・労働条件を規制するのはなんのためでしょうか?
○教材Ⅱ(具体例)の(1)について、労働基準法第32条を参考にして記入しましょう
・厚生労働省広島労働局のサイトを見ると最新の広島県の最低賃金を確かめることができます。(2)の括弧に719円と記入してください ・1週間でどれくらい賃上げになりましたか?
○1週間で牛丼一杯分程度賃金がアップしましたが、年間で計算したり広島県すべての労働者に適用されたりすることを考えるとこの360円を労働者はどのように評価するでしょうか?
◎労働者を保護するために労働時間に上限を設けたり、賃金に下限を設けたりするのは効果的だと思いますか?
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(4~5名の班に分け、班長を司会、副班長を班の発表者に指定しておく)
(模範解答)
(1)労働者、使用者 (2)労働者 (3)労働法 ・読む
・(回答例):「人たるに値する生活」、「必要を充たすもの」、「労働条件」… ・(回答例):人たるに値する生活を保障することが条文の目的だから、労働条件は一定の条件を満たさなければならないから、労働条件のことが書いてあるから、…
・労働者の生活を保障するため
・1日:8時間、1週間:40時間
(1週間単位の規制であるとともに、1日単位の規制でもあることを知る) ・719円 (710円から9円引き上げられた) ・9円×40円=360円
・1か月(5週間とすると)
360円×5=1800円 ・1年間(12か月) 1800円×12=21600円 (肯定的な評価例) ・賃金が下がることはないので長期的にみれば安心感を与える、… (否定的あるいは疑問視する評価例) ・賃金の上昇以上に物価が上昇すれば意味がない、…
○効果があるから規制を設けたのだろうけれども、それが完全かどうかはわからない
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○別の視点からみてみましょう
○次の板書をする ・たとえば、人は死ぬものである、これは法則ですが、しかし人を殺してはいけない、これは当為です
○経済(法則)の視点で労働法の規制を考えてみましょう
◎教材Ⅲ(需要と供給の原理)の(1)や(2)の括弧に入れるものは何でしょうか
・両曲線の交点にはどのような意味があるのでしょうか?
○その結果、失業者の増大は法則として想定されるのでしょうか?
○最低賃金の導入によって、需要と供給の原理は修正され、教材Ⅲの(3)の括弧に入れるものは何でしょうか?
○その結果どのようなことが想定されるでしょうか、班で確認しましょう
・企業側も一定の労働者数を確保したければ、どんな手段を講じることが考えられるでしょうか? ・非正規雇用者の労働条件の規制を強化、たとえばさらなる最低賃金の引き上げなどすれば労働者保護も一層強化されると思いますか? ◎教材Ⅳの知的ツール(規制は是か非か)を活用しよう
・労働時間の規制はあったほうがよいかどうか、最低賃金の規制はあったほうがよいかどうか、全4パターンのうち考えやすいものを各班で選んで、そのメリット・デメリットを明らかにしよう ・余力があれば、全4パターンを考察して、どれがより適切なのか順位をつけてみよう ○各班の発表を聞いてみよう
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(法学は法律など条文に関すること、経済はお金に関することだけではなく、その背景に注目することに気づく)
(生命について法則で考える見方が経済であり、当為で考える見方が法学であることを知る)
・需要曲線は使用者の立場
・供給曲線は労働者の立場 ○使用者も労働者も労働時間や賃金について意見が一致している
○一致しているので理論的には失業者の発生は考えられない
・上部
・理論的に本人の意思とは関係なしに解雇され失業者になる人が出てくる
・国内で解雇が容易な非正規雇用を増やす、海外で長時間・低賃金の労働者のいる地域に進出する、… (労働者保護のための規制が、雇用を不安定化させ、逆に労働者保護にならない事態が想定され、よくわからなくなる) (回答例)
・労働時間を規制すると過労死を防ぐことができる(メリット) ・労働時間を規制するとより多く働いて賃金をえる機会がない(デメリット) ・賃金の規制があると景気に左右されず安定した賃金をえる(メリット) ・賃金の規制があるとより多く賃金を支払うことのできる企業が賃金を低く見積もる(デメリット) |
○労働法による規制について考えてみよう
【本日のまとめ】 ・労働者保護関連であれば正解である |
(回答例)
・人たるに値する生活 ・健康で文化的な最低限度の生活 ・使用者側のいいなりにならない自由 ・他の労働者との平等 ・労働者が自分の生活を振り返る時間 |
「規制は上から下から、これって必要??」
Ⅰ 基礎知識の確認(正しいものに○をつけよう) 「労働法と呼ばれる法律の大半は、使用者と労働者が対等でない事実に着目して、労働者の立場を保護するために制定された。根拠は、日本国憲法の勤労者の権利による。」 Ⅱ 具体例 (2)賃金には下限がある Ⅲ 需要と供給の原理 (2)賃金が上がれば上がるほど多くの労働力を提供するのは企業に雇われる労働者側である。
平成24年10月より広島県の最低賃金は710円から719円に引き上げられた。 「新しい労働力の需要と供給」 (3)最低賃金の引き上げにより、需要と供給の一致する均衡点よりも(上部 下部)に賃金が設定される。 ⇒719円で雇われたい労働者は増加し、719円で使用者が雇いたい労働者は減少する。 ⇒使用者と労働者との考えの不一致により、いわゆる超過供給部分=非自発的失業者(自らの意思で失業者になるのではない労働者)の数量が増大する。 Ⅳ 知的ツール(規制は是か非か)
○各班の発表を聞き、メモをとろう
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本日のまとめ 資料 |
荒木先生の提案では、営業の自由を含む憲法22条や私人間に直接規律する憲法27条2項を踏まえるという王道ともいえるアプローチです。私の場合は少しトーンを落として、労働時間の規制と最低賃金の規制の2つの規制に着目させてその規制がある場合とない場合を考察させる程度です。生徒の反応で私が熱望するのは、「労働時間と最低賃金は切り離して考えてはいけない、もし賃金の引き上げがなく労働時間の短縮のみでしかも残業規制が厳格されれば、かえって労働者の実収入が減るからだ」、「市場は完全ではない、また労働者にはじっくり職業を選ぶ時間がない、企業別労働組合の日本では国家による規制は不可欠だ」などの反応です。創造力を発揮して自分のもっている知見を総動員して論理的に考えいく、これは法教育の醍醐味です。
荒木先生に教えていただきたいことは、経済からみた労働法はどのようなものなのか、という素朴な疑問に凝縮されています。私は、単純に経済は法則で考える、法学は当為で考える、と割り切っています。これでよいのでしょうか?
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今回も長文での質問で恐縮しております。
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