法と教育学会 第4回学術大会 その2

 2013年9月1日(日)に開催された法と教育学会第4回学術大会の午後の部についてお伝えします。(当日の資料より、適宜引用させていただきます。)

〈午後の部のプログラム〉

13:50~14:50 基調講演「法と道徳の区別と関連について」
15:00~17:00 パネルディスカッション「法教育と道徳教育の対話」

1 基調講演「法と道徳の区別と関連について ―法教育の位置づけを考える一視点として―」

田中成明 京都大学名誉教授

〈法と道徳に関する基本的諸概念の整理〉

 法と道徳との関係を議論する場合、「実定法」を念頭に置くことが多くなっています。実定法とは、国家が制定して現に行われている法です。それに対し、「自然法」とは、あるべき理想的な法で、実定法の妥当根拠となったり正・不正を判断する基準となったりするものです。自然法は、実定法の道徳的な基礎、あるいはその評価基準という意味で道徳の一種と位置づけて議論を進めます。
 法規範の特質について、一定の行為の禁止・命令によって義務を課す「義務賦課規範」だけでなく、有効な法的行為を行う私的・公的な権限を一定の人や機関に与える「権能付与規範」があります。直接的に道徳規範と重なり合うのは義務賦課規範で、権能付与規範は、直接的には道徳規範と重なり合わず、むしろ政治、経済などの社会制度のインフラとしてその構成や運用を規律する役割を果たしています。こういった政治、経済との関係で法が果たしている道徳的な機能が見落とされてしまうことに注意する必要があります。
 「道徳」の概念については議論もありますが、高校以下の教科書などでは倫理、人倫といった概念と互換的に用いられているようですので、ここでも、緩やかに、「善悪正邪の基準として人々の行動を規律する規範・価値」と理解して、これらの概念と互換的に用いることにします。「実定道徳」と「批判道徳」は、法の伝統的区分における実定法と自然法の関係にほぼ対応する区分といえます。実定道徳は、一定の人びとの間で現実に受け入れられて一般的に守られている道徳。批判道徳は、実定道徳をはじめ、人びとの行動や社会制度などを評価、批判する理想的な基準となります。「共通道徳」は、ほとんどの実定道徳に共通する最小限の背景的道徳として、道徳的な観点をとって理性的に判断、行動する全ての人びとが共有する、あるいは共有すべき普遍的な核心的内容です。
 道徳教育は、共通道徳の教育を中心に行われることになるわけですが、実定道徳に関する規範意識を内面から涵養することと、自律的に道徳問題を考えて自分なりの批判道徳を身に付けることをどう組み合わせるか、どういう段階で区別するかは難しい問題です。
「社会道徳」とは、社会成員の相互関係を規律するものとして一般的に受け入れられて共有されている客観的な道徳規範・原理です。一方、「個人道徳」は、個人の良心や自律的選択など、内面的・主観的な心情にウェイトを置いて、各人の道徳的な理想の独自性や多様性を尊重する発想につながると理解されています。問題はそれぞれの相互関連ですが、道徳の内容的な区分というより、多くの道徳に共通に含まれている2つの側面と考えるのが適切ではないかと考えています。

〈法と道徳の区別という観点から〉

 「法の外面性・道徳の内面性」というテーゼに関しては、その区別論は、法や国家といった強制権の限界づけや、自由権的基本権保障の基礎づけにおいて果たした理論的な意義は現在においても重要な視点であり、法教育でもこの意義をきちんと教える必要はあります。しかし、法の場合には、第一次的には外面的な行為に関心を向けて、内面的な心の対応には第二次的に関心が向けられるということで「外面性」でいいと思いますが、道徳の場合には、個人道徳に限定すればともかく、社会道徳については行為の内面・外面ともに関心をもつものがほとんどであり、道徳の「全面性」と修正した方が適切だと考えます。
 「遵法意識の涵養」は法教育でも道徳教育でも非常に重要なことですが、いきなり法の遵守という側面から法への関わり合いを教えるということは適切ではなく、どの段階でどのように教えるかには工夫が必要です。特に、法の自律的な形成・遵守という側面と強制的権力的な側面の相互関係を的確に理解させることが重要です。

〈法と道徳の関連という観点から〉

 近代においては、道徳は内面化・主観化され、他方で実定法は国家化されることで、実定法システムが個人道徳から自律化していく傾向が進んで法と道徳が分離されることにより、「法の脱道徳化」が近代市民法体制の根本原理であるとする考え方が支配的になりました。しかし現代は、国家や法が国民の福祉や幸福の増進のために広範に社会経済生活に配慮・介入する積極国家へ転換してきました。これと並行して、脱道徳化されていた近代市民法体制が修正される流れができ、現代法の「再道徳化」と呼ばれています。こういった現代法の再道徳化傾向につき、国家や法が社会経済生活へ配慮・介入することを、どのような道徳的価値を理由に正当化できるのかというのが最も原理的な問題です。法教育でも、人権などの憲法的な価値、あるいは基本的な政治経済制度を教える場合の原理的な視点を見定めるうえで、非常に重要なポイントになります。ただ、このテーマは範囲も広く、非常に大きなテーマですので、短い時間で議論状況を整理するのは難しいものですから、ここでは課題を指摘するだけにとどめ、法理論に限定した領域で議論されている「法的パターナリズム」と「法的モラリズム」という2つのテーマだけ取り上げることにいたします。
 「法的パターナリズム」
 現代法の再道徳化傾向は国民の福祉のために法によって社会経済生活に配慮・介入するという観点から見ると、パターナリズムの一種といえます。国家や法によって配慮・介入すべき範囲と個人の自律的な選択・責任に委ねるべき範囲をどのように調整するかというのは、単に道徳的な正当化の問題だけではなく、広い意味での政策的な問題として、非常に大きな対立があります。このように、法的パターナリズムの問題は様々な側面で対立が生じやすいテーマですので、法教育においても、消費者保護の法的な仕組みを理解する際などに格好のテーマになると思います。単純に保護か規制かということを考えずに、いろいろな論点について注意を喚起する必要があるのではないかと思います。
 「法的モラリズム」
 法的モラリズムとは、社会の存立確保のために必要な場合には、不道徳な行為を不道徳であるという理由だけで犯罪として処罰の対象とすることができるとする考え方というのが古くから根強い影響力をもっていますが、この見解は、不道徳であること自体は法的処罰を正当化する理由にはならず、個人の生命・身体・財産などに対する具体的な危害がある場合に限って法的処罰の対象とすべきだとする立場と対立しています。この対立は、わいせつ文書販売や薬物使用などのいわゆる「道徳犯罪」や「被害者なき犯罪」の場合や、代理懐胎や尊厳死などの生命医療倫理が問題となる場面で明確にあらわれてきます。法によって強制的に維持すべき社会倫理の具体的な内容は何かということが非常に難しい問題です。また、社会的に問題となる道徳は、プライベートな側面と社会的な側面とを併せ持っていることが多く、プライバシーの尊重と公序良俗との線引きも難しい問題ですが、これは単なる道徳理論の問題にとどまらず、政策論的な問題になってくると思われます。
 法的モラリズムと法的パターナリズムは実際には重なり合っていることが少なくないのが実状です。法教育でも、ルールを作る教育の段階で、具体的事例に則して自分で考えさせる機会を与えることが必要ではないかと思われます。

〈法教育の位置づけ〉

 私個人としては、法教育と道徳・倫理教育を一体的・統合的にとらえるのではなく、むしろ公民科教育の一環としてとらえ、道徳教育と社会科・政治経済科目教育とを架橋する役割を中心に法教育の在り方を考えるのが適切ではないかと考えています。

2 パネルディスカッション「法教育と道徳教育の対話」

【パネリスト】堺 正之(福岡教育大学教育学部教授)
        吉村功太郎(宮崎大学大学院教育学研究科准教授)
        三浦清孝(京都市立岩倉北小学校教頭)
        中平一義(厚木市立東名中学校教諭)
【コメンテーター】綱森史泰(弁護士)
【司会】     吉田俊弘(大正大学TSRマネジメント研究機構特命教授)
         橋本康弘(福井大学教育地域科学部准教授)
                             (以下敬称略)

〈パネルディスカッションの趣旨〉

司会:「まず、道徳教育が何を議論し考えているかにつき、内外の実践をふまえて問題を整理し、法教育と道徳教育がどのような関係にあるか議論をしていただきます。」

〈道徳教育における「法やきまりを守ること」の位置づけ〉

堺:「日本道徳教育方法学会で「規則の意味を考える道徳授業」というテーマのシンポジウムをしたことがあります。そこで江口勇治先生が「法と道徳の対立点ばかりに目を向けるのではなく、法と道徳をつなげてスジを通していくことが必要ではないか。法教育も道徳教育もそれぞれの可能性と限界があり、教育が限界を意識することが必要ではないか。」と言われました。江口先生はまた、「法やきまりを『守らなければならない』という気持ちを『守りたい』という気持ちに変えるためには、法を守ることのメリットを知らせていくことが重要であるが、そのメリットは個人的メリットではなく、民主主義を守ることにつながるのだ」とも言われました。
 国が行った、義務教育に関する意識調査の結果から、「学校で身に付けることが必要な能力」で最も必要度の高いものについて、保護者や学校の先生は教科の力だと答えていたのに対し、小中学生自身は、「良いことと悪いことを識別する力」と考えていることがわかりました。子どもたちが問題に直面したときに必要となる、なにがしか確かな判断基準や根拠を道徳教育ももっと提供していくことが求められているのではないかと思いました。
 日本の道徳教育のスタンスとして2つの主義が見られます。1つはいわゆる「全面主義」で、道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行うことを原則とするということです。もう1つは、「価値主義」です。「親切」「友情」「家族愛」といった価値を一つ一つ教えることによって道徳性の育成が図られるという考え方です。こういった考え方は日本の道徳教育を抑制的なものにしているといえると思います。1989年の学習指導要領改訂により、網羅的・並列的だった内容項目が「4つの視点」(自分自身に関すること、他人とのかかわりに関すること、自然や崇高なものとのかかわりに関すること、集団や社会とのかかわりに関すること)によって分類整理され、内容の重点化が図られて現在に至っています。

〈今後の指導方法上の課題〉

 2008年に改訂された小学校学習指導要領では、道徳において「社会生活を送る上で人間として持つべき最低限の規範意識」を低学年から「確実に身に付けさせる」という側面が強調されています。今後の指導方法上の課題として1つには、「きまりを守ること」は学校だけが求めていることなのではなくて、家庭や地域を含む社会全体の要請であることを、どうやって子どもに理解してもらうか。また、「きまりを守ること」は自律と相反するものではない、むしろ軌を一にするものであるということを考える方向で指導することが必要だと思います。学習指導要領が、「規律ある」という言葉を「自律的で責任のある」という言葉に置き換えたことも、今まで述べてきたようなことが反映しているかもしれません。
 また、人間は相手の痛みを感じとり、何とかしてあげたいと思うものであり、そのような関係の連鎖の中で人間社会が成り立っているという見方を、学校教育としては繰り返し確認していきたいということも課題に考えています。
法教育の視点(法の意義についての理解・法規範に基づく善悪の判断・法的な価値の尊重)を導入することも課題の1つに挙げられます。私は学習指導要領の4「主として集団や社会とのかかわりに関すること」の視点に限定しなくてもいいのではないかと考えており、たとえば「個人の自由の拡大」から法やきまりの意義を考えていくことも可能だと思います。法教育との対話が、それについて新しい知見を与えてくれればと期待しています。
 道徳の時間と法教育との連携には、2つのことを期待したいと思います。1つは、道徳の読み物資料(6年生)における学習指導要領4の(1)「公徳心をもって法やきまりを守り、自他の権利を大切にし、進んで義務を果たす」の「切り口」についてです。資料の扱い方の順番や、どういう「切り口」を見出すかについては、先生方の力量にかかっていると思います。「切り口」を明確にした、小学校6年間(あるいは義務教育の9年間)を見通した指導計画の作成が望まれます。もう1つは「心情主義」の課題を克服することです。日本の道徳教育が心情的感性教育に走ってしまったがゆえに社会生活上で直面する課題を解決する力に直結しにくいものになっているところがあるので、今後の研究で新しい方向性を見いだして活動できればいいと思います。」

〈英国のシティズンシップ教育を中心に〉

吉村:「本日報告する英国(イングランド)シティズンシップ教育も、法的思考と道徳的思考との関連として民主主義社会の市民としての資質育成を目指しているという点では、我が国の社会科と共通しているであろうと考えられます。
 英国では、2002年に新教科としてシティズンシップが導入されました。その背景は主に4点挙げられます。1つは若者の投票率の低下や政治・社会に対する無関心に代表される民主主義の危機。2つめは、若者の麻薬や暴力、退学や非行といった社会的疎外感からくる問題。3つめは、テロリズムとの戦いと市民的人権の保障をどのように考えるかという問題。4つめは、EUへの統合と移民の増加、地方分権の加速の中で、国民国家という枠組みと市民性との兼ね合いについての問題が出てきていることです。そこに、社会で市民性を育成することが期待できるのかという根本的な問題が発生したという状況があります。
 教科設立の基盤となった1998年のいわゆる「クリックレポート」では、教科シティズンシップで育てたい市民像を「見識のある、活動的な市民」としており、民主主義社会を担うこのような市民の育成が、教科シティズンシップの目的であると捉えられます。カリキュラムを構成する4つのストランドとしては、①社会的・倫理的責任、②コミュニティへの関わり・参加、③政治的リテラシー・素養、④アイデンティティと多様性、英国で共に生きること、を設定しています。
 同レポートでは、従来行われてきた政治や経済等の制度や法則性に関する知識獲得型の学習では不十分であるとされており、知的理解を前提としながらも、知識や技能の適切な活用を基盤としつつ、民主主義社会の市民として行動するためのスキルをも育成することが目指されています。
 英国シティズンシップの教育方法の特徴を自分なりに分析したところでは、民主主義社会の諸価値を直接的に教え込むということからは一歩退き、社会問題を考える中で主体的に選びとることにより、主体的に考えて判断し行動していくための基盤として諸価値を選択的に受け入れていくことを期待していると考えられます。
 法と道徳という観点から英国シティズンシップを見ると、実定法を前提とするのではなく、法の前提となっている民主主義社会・市民社会としての英国の社会的価値を基盤としていると考えられます。この立場は「自然法主義的」な考え方と位置付けられると言ってよいのではないかと思います。価値を価値として教育するのではなく、あくまでも具体的な社会問題に対する思考を通じて、市民社会における行動性向として主体的・選択的に学習させようとしているからです。「価値観」を学習させようとしているとも考えられるし、その価値観は、自己と他者との関係の中で決まる間主観的なものでもあるとも考えられます。
 また、英国シティズンシップ教育は、社会における他者との関係性のあり方を主眼としているとも捉えられるところから、個人の人格形成を主とする「個人道徳」ではなく、他者との関係性に関する「社会道徳」に専念しようとする傾向も強いのではないかと捉えられます。社会をわかり、よりよい社会を考えて主体的に行動することを期待される市民としての資質育成を目的とするのであれば、シティズンシップ教育や社会科教育は少なくとも「社会道徳」と無関係ではいられないし、民主主義を正当化するための根拠づけとして「自然法主義的」な考え方に寄らざるを得ないのではないかとも考えられます。」

〈小学校法教育の授業を通して〉

三浦:「前任校である京都市紫竹小学校は、道徳の中で規範意識をどのように育成するか研究を進めてきた学校です。さらに、学級活動の実践をふまえ、法教育と道徳と、それぞれの特性を活かした法教育授業づくりの研究を依頼されました。数年間研究をし、法教育を支える授業と法教育そのものの授業は分けるべきではないのか、というあたりに行きつきました。
 今回紹介するのは、「エコフェスタ(地域行事)に出品するエコバッグ(商品)の価格を決める」という題材の授業です。児童は、エコバッグを作って売る会社の人の立場(役割)になって価格を考えるのですが、価格については予め1個10円から「価格設定なし」まで5段階を用意しておきました。価格をいくらにするか考える際のポイントを、エコの取組の遂行という「理念」か、会社組織としての「利益」か、自分達の頑張りとしての「人件費」なのか、その価格設定で完売できるかも含めて考えさせ、多面的に話し合えるようにしました。複雑な要素を一つ一つ整理して、自分達の納得できる価格を決定することが、話し合いで問題を解決し、「価格」というルールを決定することになる授業でした。
 授業の成果としては、児童に「役割」を与え、それを演じる話し合い活動が有効でした。話し合いの準備を十分にした子どもは、自分の主張を言うことができ、相手の主張を理解することができましたが、準備が足りないとできません。話し合いの準備の有効性を実感させられました。
 弁護士にも授業に参加してもらいましたが、ポイントが2つあります。1つは、弁護士にグループの話し合いを支援してもらうことにより、「対立」から「理解」・「合意」へ向かう話し合いの進め方を児童が学ぶことができることです。「対立」を学校で扱うことは敬遠されがちです。児童には「理解」と「合意」は別のものであることがわかっていません。感情的にならずに自分の考えを適切に伝え、相手の発言を理解し、合意点を見出していく活動の進め方を、弁護士に直接アドバイスしてもらう場面を設定しました。2つめは、児童の実態や発達段階を弁護士に理解してもらえることです。実際の授業の中で児童と接することにより、弁護士の児童理解が深まり、よりよい法教育授業について考えることができると思います。
 法教育の授業のつくり方として、7つの視点を挙げます。1つめは、複数の利害や価値観が対立する場面を設定することです。2つめは、利害や価値観の正否はすぐに判断できないものを設定し、「答えをすぐに出さない」指導。話し合いに結論が出ないとダメだという考え方を捨てます。答えがすぐに出なければどうするか、2回目、3回目をしたらいいということを理解してほしいと思います。3つめは、児童の身近な問題を扱いますが、係争中の問題は解決できないとイライラするだけなので、扱わないこと。4つめは、架空の話として設定し、児童が第三者としてロールプレイできるものとします。価値観の1つ1つは道徳で培います。5つめは、「司会」の立場を明確にし、他の役割を与えないこと。6つめは、授業に協力する弁護士の役割を明確にすること。7つめは、授業の着地点(学び)を設定し、話し合い活動の技能向上に特化しないようにすることです。
 今後は、低学年から法教育の授業を計画的に行い、単発型でなく児童の成長や変容が見て取れる授業を年間複数回行うことなどを研究していきたいと考えています。最後に、授業をして感じたこととして、対立から合意という流れの間に理解というものが入りますが、子どもは理解してもらったらOKを貰ったと思うのです。理解と合意は別だということをわかってほしいと感じました。指導の面では、対立に対し抵抗感が強いということについて、投げかけていくことが大事だと感じました。」

〈法と道徳 中学校の現場から〉

中平:「まず、法と道徳の類似点と相違点に関し、全般的なルールの役割と機能について示します。中学生はルールの役割と機能について、利害・対立の調整と危険や害悪の排除という役割・機能の意識がとても強く、価値・利益の実現という役割・機能にはなかなか考えが及ばないところがあります。そこを変えていかなければと思います。相違点に関しては、法規範と社会道徳には構造上、当事者の扱いや適用範囲、制裁方法などの違いがあることをおさえなければいけないと思っています。法と道徳の特質についてもいくつか違いがあり、おさえなければいけないと考えます。
 では、道徳と法の根底になる基本的な価値は何か。道徳的価値は、自然に発生したある一定の範囲の習慣や伝統が意識化され、自明の前提となったもので、一般化することはなかなかできないものもある。法的な価値とは、憲法的な価値としては一人ひとりを大切にする、個人の尊重や尊厳です。人為的であり、公共性をもつ一定の共通利益を目指した社会の意識の総体で、共通の理念を守ることで一人ひとりを対等・平等な存在として扱うものであると考えます。
 ここまでの内容を授業に落とし込むときに注意を要する関係性として、法と道徳を混同することの問題が考えられます。生徒は、道徳を強制力のある法と同様に捉える可能性と、逆に、法が及ばないところでは何をやっても構わないと考える可能性があります。また、法と道徳の共通性も考えられます。法は守るべきものという道徳もありますし、法も道徳も社会を形成していく上での規範としての役割があります。
 では授業として、道徳で「いじめ」を扱う例を示します。道徳的視点では、「そもそも人を傷つけてはいけない。かわいそう。本人が悲しんでいる。」というように心情主義的な理解が考えられます。その気持ちは教育的には大事だと思いますが、それに法的なエッセンスを組み込むといいのではないか。「何がいじめで、なぜいじめはいけないのか」について、心情的にだけではなく、ルールとして道徳的にも法的にも、やってはいけないことという視点から考えさせたいと思います。そこで大切にされているのは、「人は対等・平等な存在として尊重される」という価値であることを子ども達に理解させなければならないと考えます。さらに、「対等・平等な存在として尊重される」という価値をどのような制度で保障してきたのかということや社会の構造は、社会科でしか学べないと思います。道徳教育と社会科教育は、相互補完するという関係になると考えます。法の意義や法とは何か考えるという社会科の役割が大事ですし、道徳教育にも活かせることになると思います。法教育の役割も大きいと考えます。」

〈コメンテーターより〉

綱森:「法教育の基礎にある考え方は、各人が自ら追求すべき幸福あるいは良い生き方という価値と、権力をもって強制され得る方が実現すべき正義という価値を区別した上で、その正義については第一義的には、自由平等な個人が相互にそれぞれの良き生き方を尊重、配慮しつつ共生するため、公正な諸条件を確保・実現する社会制度の在り方に関わるべきものとする考え方だと思います。
 このような考え方を前提とした場合、道徳教育に関しては特定の生き方のみを良いものとして押し付けるものであってはならないということがあります。法教育が伝えるべきメッセージは、法をもって実現すべき価値と個人が追求すべき良き生き方を分けた上で、よき生き方については自分自身で追及していくことが重要なのだということではないかと思います。
 道徳教育の側からは、堺先生から、道徳教育の教材が暗にルールは少ない方がよいというメッセージを発しているのではないか、あるいは心情主義的問題解決の傾向があるのではないかと指摘されました。しかし、より大きな共同体の中での問題には、ルールをつくることが必要になります。したがって、このようなことは道徳教育と法教育を関連付けながら行われるべきことと捉えます。ただ、それはなかなか難しいというのが三浦先生の発表の中にあったと思います。社会科の側から道徳を扱う場合は、中平先生の報告のように、法規範と道徳規範のズレがなぜ生じているか考えることがより重要ではないかと思います。
 最後に、中平先生は触れませんでしたが、先生のレジュメの中に「法は守るべきという道徳もある」という問題が書いてあり、非常に難しい問題だと受け止めています。個々人がそれぞれ正しいと思うことを勝手にやるのであれば、法の権威が失われ、法の機能が果たせなくなることは教えなければいけない。他方、元にある方が常に正しいとは限らないので、司法の場で争ったり、最終的に法を変えるといった働きかけもあるということも必要ではないかと思いました。」

〈取材を終えて〉

 基調講演は概念整理から始まる密度の濃い内容で、難しい問題が数々提示されました。本レポートでは、法教育に言及された部分をかいつまんでご紹介しましたが、授業実践のヒントになる示唆が伝われば何よりと思います。
 パネルディスカッションでは、法と道徳の関係を授業実践にどう活かしていくかについて、学習指導要領の切り口、心情主義という課題の克服、英国シティズンシップ教育と社会道徳の関係、小中学校の実践現場など、様々な角度からの考察がありました。分量の都合で、かなり簡略にまとめてありますことをご了解いただければと思います。法と道徳の関係は難解なテーマですが、その奥深い意味を考えさせられた大会でした。

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