「法学教育」をひらく(第3回) 仲正昌樹先生 展望編1

現状編からのつづき

〈法について〉

大村:「(今日のお話の)最初の方で言われた、哲学者の考える法と、法学者の考える法に落差があるということに結びつくことが何かありますか?」

仲正:「哲学において、極めて抽象的に「法」について語られるときに念頭に置かれるのは、人間はどんなに自由に考えようとしても、何らかの超えられない制約、枠があるということです。それは、各人が自分の思考の枠だと思っているものよりもずっと深いところにあります。簡単に意識化できるようなものは、本当の制約ではありません。本当の意味での思考の限界については、考えたくない、意識さえしたくないはずです。たとえば、殺人とか傷害、強盗といった重大な犯罪行為を自分が実行する可能性については考えないようにしている、と思っている人は多いと思います。そういうレベルでの思考の制約はわかりやすいですし、通常の法哲学は、そのレベルを規定している正義感覚を探究するわけですが、現代思想の「法」論では、それよりももっと深い層の問題を浮上させようとします。どうして罪を犯してはいけないのか、いかなる意味でも罰せられる可能性がないとしたら、人を何人殺してもいいのではないか、暴力をふるったり、レイプしてもいいのではないか、といった問題について本気で考え始め、それがルールや価値一般に対する懐疑へと発展していくと、自分が普段やっていることのほぼすべてが無意味に思えてきます。学問や芸術、スポーツだって、他者と共有している評価基準やルールがなかったら、何に価値があるのかわからなくなります。人によって、どういう機会にどういう問題を考えたときに、人間性崩壊へと向かっていくラディカルな懐疑のスイッチが入るのか異なると思いますが、人間には、そういう根源的な意味での思考の限界があり、そこは通常本人の中でタブー化されていて、意識の表面にのぼらないような内面的規制が働いています。ノーマルなものと、アブノーマルなものを隔てる境界線を生み出しているものをめぐる問題と言ってもいいかもしれません――この場合の〈normal〉には、規範的という意味も含まれています。フランス系の現代思想でフーコー、リオタール、デリダが「法」と呼んでいるのは、そうした、我々の思考の限界を絶対的な意味で規定しているため、完全に可視化はできないものです。それは、はっきりした形で全面的に表面化されることはないけれど、何かの機会に、たとえば、命がかかっている危機的な状況に置かれたときに、その片鱗を垣間見ることができるかもしれない。そうした局面に注目しながら、根源的な「法」について考えることが、90年代の後半以降、現代思想の1つのトレンドになりました。そういう一番根源的なレベルでの「法」による意識化されていない制約と、具体的な法制度によって課される人々の行動への制約とは直接的には対応していませんが、こういう風に考えると両者の間の一定の繋がりを見出せるのではないか、と思います。国家の制定する法律など何とも思っていない人でも、理性があって、「人間」らしい生き方をしようとすれば、自らが従うべき何らかの価値が必要であること、他者と共存しようとすれば、共通のルールが必要であることは理解できるでしょう。そうした価値やルールは、まったく恣意的に設定することはできません。そういうものを考えるとき、人間の思考には一定の制約がかかってきます。そうした制約は先ほどお話したように、私たちの意識のかなり深い層に根ざしているので、慣習的に形成されるものなのか、アプリオリに与えられるものなのかわかりません。現代思想では、精神分析や文化人類学、歴史社会学などの知見を動員して、根源的な「法」=ノルム(規範)を探究してきたわけですが、法律や法慣習を介しての人びとの具体的な交渉や、ルール形成の過程を細部にわたってじっくり観察することで、哲学・存在論的な次元の「法」を考察するヒントが得られるのではないかと考える人もいます。先ほど、法学の思考は、様々な現実の制約の中での思考ではないかという話をしましたが、現実の中に、根源的な「法」の作用の痕跡を見出せるかもしれません。
 そうした視点から私は、アメリカの法哲学者で、デリダの脱構築を法理論に応用していることで知られる、ドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域への権利」論に注目してきました。「イマジナリーな領域」というのは、ラカンの精神分析の想像界・現実界・象徴界のうちの想像界に対応するもので、現実的な話に応用できるようにコーネルなりのアレンジが加えられています。想像界・現実界・象徴界について、簡単に説明しますと、人間の精神活動の階層のようなものです。斎藤環さんが、パソコンに例えてわかりやすく説明しておられるので、それを利用させていただきますと、現実界はパソコンのハード、象徴界はプログラムに相当します。パソコンの動作は物理的にはハードによって規定されていますし、その中での作業プロセスはプログラムによって規定されています。これは、人間が、身体と言語によって制約された存在であることに対応しています。想像界は、スクリーン上に出てくるイメージに相当します。これは人間が、他者について様々なイメージを形成し、それらを介して相互に関係し合っていることに対応しています。私たちは生まれた時は、自分がどういう存在なのか、何をしていいのかわかりませんが、言語やイメージを自らの内に取り込むことによって、アイデンティティを形成します。言語的にプログラム化された理性的な思考の規則をインストールされることによって象徴界が形成され、思考の限界が規定されますが、それと並行して、他者の身体や振る舞いを鏡像としながら、「自己」についての基本的イメージ=アイデンティティを形成するプロセスも進行します。それが行われるのが、想像界≒イマジナリーな領域です。イマジナリーな領域において、私たちは、相手がどういう人物であり、それに対して私はどういう関係にあるかイメージし、それを自らの人間的な行為のベースにしているわけです。身体、理性、イメージが一体になって、私たちの人格が形成されます。
 私たちは、自分は自立した存在であるかのようにみなしがちですが、実は、他者や外界との関係によって構成された3つの領域によって規定されています。実際のラカン派の議論では、3つの領域の相互関係について複雑な議論をするのですが、コーネルは「イマジナリーな領域」に焦点を絞ることで、現実問題、特に法的問題に、この話を応用することを試みます。「イマジナリーな領域」という視点から、私たちの社会的行為を考えると、私たちは自分と他者の関係性についての基本的なイメージを抱いていて、それに従って自分の行動の基本的方向性を決定します。社会的に形成された自他の関係性のイメージが、自己決定を規定しているわけです。人間は物事を決定するときに、自分では自分の意思を最初から持っているように思いがちですが、行為し終わった後で、その時の意思を再構成しているにすぎず、その時点では自分が何をしたいのかはっきりしていなかったということが多いと思います。目的を定めないでとにかく行動しているうちに「意思」がはっきりしてきて、それに基づいて自らの行為に意味づけすることもあります。法律で自己決定権が問題になるとき、ほとんどの場合、自分の思ったとおりのことを実行できる権利という意味で理解されていますが、自分の意思を決めるためにその機会を与えてもらう権利を意味することもあります。医療訴訟で、先天的障害をもった子が生まれる可能性が高いことを医師が事前に知らせなかったことが、自己決定権の侵害だとして両親から訴えられているケースがありますが、そういうケースでは当然、結果に対する責任を問うことはできません。しかし、医師が情報を与えなかったことによって、そういう障害をもった子と共に生きるべきかどうか思い悩む機会が両親から奪われたと考えることができますし、実際、日本でも、そうした機会をもつ権利が両親にはあるとする判決も出ています。この場合の思い悩むというのは、医師の情報提供をきっかけとして、医療関係者やそうした経験のある人の話を聞きながら、自分たちの将来のあり方をイメージする、ということだと見ることができます。医療訴訟で問題になる自己決定権は、多くの場合、治療を受けた後の自分の人生のイメージを描くための機会がきちんと与えられたか否かに関わっています。自己決定権に含まれるそうした側面を、哲学や精神分析の知見を背景として、一般化したものが、「イマジナリーな領域への権利」です。
 人間は自分単独で、人生の重要な問題について決定しているわけではなく、自分を取り巻く関係性の中で構成される「自己」のイメージ――自分自身がもっているイメージと、他者が抱いているイメージの双方を含みます――によって考え方や行動が規定されています。「自己」のイメージは、他者との相互作用によって変動します。コーネルは、大人になったからといって、「自己」のイメージ=アイデンティティが完全に固定することはなく、変化の可能性は常に開かれていると考えます。各人のアイデンティティは、イマジナリーな領域での他者との関わりを通して、絶えず生成し続けます。そのアイデンティティ化のプロセスが、他者の干渉によって不当に妨げられたり、制約されることがしばしばあります。そういう干渉からから守られる権利を「イマジナリーな領域への権利」と呼んでいるわけです。こういう風に抽象的に説明すると、恐らく、「どんな人間でも自分がこれからどうなりたいのか、何をやりたいのかわかっていないし、それはどうしようもないことではないか?」、という疑問が出てくるでしょう。あるいは、「他人の自己形成に干渉しているのはお互い様なのではないか」、と思う人もいるでしょう。法律家や法学者であれば、「そういうことは既に、広い意味でのプライバシー権で保護されているのではないか。それを超えて、他者の介入を排除しようとしても、心の問題なので、法律ではどうしようもないのではないのか」、と思うかもしれません。一般論としては確かに、プライバシー権(+自己決定権)の範囲を超えた法的規制を行うのは難しいわけですが、先ほどお話した「思い悩む権利」のように、理性的な人間であれば自分がどうなりたいのか、どうしたいのかわかっているはず、という近代法の大前提の下では説明しにくい問題もありますし、ある特定の状況に置かれている人は、情報や権力関係の面で普通ではありえないようなすごい制約を受けていて、とても自分の意思自体が定められないことが客観的に明らかな場合もあります。コーネルがその端的な例として挙げているのは、幼少期に性的虐待を受けるなどしてトラウマを負い、いつのまにか自分で積極的に望まないままにポルノワーカーになってしまったという女性たちの問題です。主流派のフェミニストは、ポルノは、出演している女性を含めてすべての女性に対する暴力だと主張するけれど、ポルノが非人間的でダメだとしたら、そこに出演している女性たちはどうしたらいいのか。自立支援のためのお金をあげるとかいう話になりそうですが、お金があれば、自分らしい本来の生き方を見つけられるのか。コーネルは、いきなりそういう決断を迫るような状況に追い込むべきではなく、自分たちがどうしたいのか、周囲の他者たちとコミュニケーションしながら思い悩むプロセス、いわば、自己のイメージを再想像するプロセスが必要だと主張します。
 こうした問題は、多文化主義的な文脈でも生じます。アフリカの一部には女性の性器切除をする文化があります。それを拒否したくて、つらい目にあっている人も少なくない。では、その文化圏との縁を完全に断ち切りたいかというと、必ずしもそうではない人もいる。自分の属している共同体のある慣習は耐え難いけど、その共同体に属する者としての自分のアイデンティティを否定したくない人は少なくありません。その文化がマイノリティの文化だと、話は更に複雑になります。多数派の人たちはマイノリティの集団の自治を尊重して一切口出しすべきでないのか、それとも理不尽と思える慣習については、マイノリティ文化であるかどうかにかかわりなく、法の普遍性に基づいて糾弾し、強制的に是正させるべきなのか。そういう二項対立的な図式の中で、本人は苦しい選択を強いられます。「あなたはどちらに自己決定していますか?その共同体の一員としてのアイデンティティですか、それとも西欧先進国の女性と同じような自由な人格としてのアイデンティティですか?」。
 近代法はなんらかの判断をするときに、当事者自身が自分の立場を明らかにし、自己決定しているという前提に立ちます。特に自己決定権をめぐる訴訟では、問題が生じた時点でその人が何を望んでいたかはっきりしているはずという前提に立たないと、権利侵害が行われたかどうか認定できません。しかし、今挙げたような例では、本人の本来の意思を無理に確定しまうと、本当の問題の所在がわからなくなってしまいます。そういう風に無理に焦点を絞るのでなく、その人が自分はどうなりたいのか自己想像する余地を不当に狭める環境が他者の干渉の下で形成されていないか見極めたうえで、解決の方向性を探究べきだというのがコーネルの考え方です。自己のイメージを選択・形成するプロセスが保障される必要があるという認識の下で、通常のプライバシー権+自己決定権ではカバーしきれないところ、「イマジナリーな領域」そのものにまで、法的権利の範囲を拡張していこうとするわけです。
 こうした考え方は、セクハラ訴訟にも応用できます。セクハラ訴訟では、合意の有無が争点になることが多いですが、現実には、問題が起こった時点での被害者本人の意思が曖昧なことも少なくありません。セクハラをめぐるアメリカの議論では、嫌なら、どうしてそれを間接的にでも示すようなサインを出さなかったのか、ということが「通常人 reasonable man」の基準を持ち出して主張されることもあるようです。それに対してフェミニスト法学者の中には、「理性的な女性の基準」など、異なる理性のあり方を想定して対抗しようとする議論もあるようですが、コーネルに言わせれば、そうやって、女性の本来の考え方とか、マイノリティの女性の考え方とかを最初から前提にするような議論の立て方は不毛であり、何が本当に問題なのかわからなくしてしまいます。職場や学校などで自己のイメージを形成する権利が不当に抑制されていると考えた方が、環境型セクハラなど、いろんなタイプの問題に応用できると主張します。コーネル自身は主として、フェミニズムや多文化主義に関係する領域で「イマジナリーな領域への権利」論を展開していますが、この理論は、人間の意思決定をめぐる状況一般に適用できます。医療訴訟を例に挙げて説明させていただいたのは、私なりの応用です。民事訴訟をめぐる当事者たちの振る舞いを法社会学的に細かく分析すると、この種の問題は多々浮上してくるはずですので、応用範囲はかなり広いと思います。「イマジナリーな領域」のようなものを念頭に置いて、人間が意思決定し、相互に合意するとき何が作用しているのかについて掘り下げて考える機会を作れば、面白い議論ができるのではないかと思います。」

大村:「近代法が想定しているとされる主体とか、近代法が想定しているとされる自己決定というものが、ある前提に立っているゆえに排除しているものがある、というのでしょうか。それとは違うものを法の世界の中に導入してやれば、今と違うパースペクティブ(観点)が開けてくるのではないかということですね。」

仲正:「そうです。」
展望編2へつづく

改訂版〈学問〉の取扱説明書

改訂版〈学問〉の取扱説明書 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 仲正昌樹 著
 四六判
 398頁
 2011年4月
 1,800円(税別)
 作品社

 

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