「法学教育」をひらく(第3回) 仲正昌樹先生 展望編2

展望編1からのつづき

〈基礎法学の果たすべき役割〉

大村:「今のようなことは、法学部の学生には敷居が高いことだと思います。実定法の勉強より難しいかもしれません。先生の現在の御担当は政治思想史ですね?私は法学部の中に政治学があることを積極的に考えさせる方がいいという立場ですが、政治学に限らず基礎法的なものも法学部の中に存在している。先生がおっしゃるようなことは実定法学者が扱うには荷が重いところがあります。実定法以外の人々が果たしうる役割はどういったものとお考えですか?」

仲正:「私が先ほど申し上げたような内容は、基礎法がもっと担ってもいいと思います。私の知る限り、基礎法の先生は、法学カリキュラム全体の中で重要な役割を担うことについて最初から遠慮している感じがします。実定法ではこうなっていますと言われると、すぐに引いてしまう。引かないで、自分の専門の見地から、実定法のあり方に対して批判的意見を強く主張できる人は限られているのではないでしょうか。医学における基礎医学と違い、法学において基礎法は、法学を発展させるための基礎的研究分野とは考えられていないということもあるかもしれません。法学部に教養主義的な高級感を出すために存在しているにすぎないという風にご当人たちも思っているせいか、積極的な役割を果たしにくくなっているように思います。先ほど話題になった、教科書から外れた教え方をするということに関しては、基礎法の人たちは、文学部の諸学科と同様の事情から、それを実践せざるを得なくなっているわけなので、そうした経験に基づいて、実定法の教育について意見してもいいのではないかと思います。そうしたアクティヴな意見交換が可能になるには、基礎法の人たちが意識を変えるべきなのか、それとも法学部全体の中で基礎法の役割を高めるべきなのか、具体的にどうすればいいのかわかりませんが、とにかく基礎法のあり方が変わらないといけないのではないかと思っています。」

大村:「合意とは何かを考える場合は、合意をめぐる諸制度は実定法学者が教える。我々の社会における合意とは何かと根本的に考えることに意味はあると思いますが、それは法哲学に任せる。もっとも、両方の領域から必ずしも十分に扱われていないような基礎問題があって、そこのところは法学にとっては結構重要なところなのではないかとも思います。」

仲正:「合意、権威、正当性などは、近代法の基礎だと思います。法哲学者はこれらの概念について研究していますが、ほとんどの場合、権威をいかに定義すべきか、誰それの理論における権威はどう理解すべきかといったレベルの議論に終始し、権威が社会の中でどう機能しているか、実例に即して考えてみようとすることはあまりないと思います。初期教育において「権威」や「合意」をテーマにして授業をやろうとすれば、サンデルが白熱教室でやっているように、新聞等から示唆的な事例を見つけてきて、学生の反応を見ながら授業のやり方を組み立てることになると思いますが、これまでやってこなかったことをゼロから始めるわけですから、結構苦労すると思います。「権威」と聞くとどう感じるかから学生と討論するようなことをしないといけないでしょう。そういうのは子どもっぽいと思っている人は多いかもしれません。そういう授業に、「法学基礎」とか「法学原理」とった名称を付けたら、なおさらやりにくいでしょうね。
 それがまさに法学部の文化なのかなと思います。そういう素人っぽいことではなく、伝統的なカリキュラムの枠内で指定されていることを教えるのが本来の仕事で、それをちゃんとこなし、学生や同僚から高く評価されたうえで、プラスアルファとして“少し変わったこと”をやるのなら許容範囲かもしれないという感覚を強く持っている人が多そうです。教育に熱心で、時間をかけて質問に答えたり、学生の自主勉強会に付きあうようなタイプの先生でも、学生の方から、「先生、『合意』ってどうして、契約法の大前提なんですか?法学では当たり前のことになっているけど、どうしてそういうことになったんですか?教科書と離れてもいいから、ちゃんと考えてみたいんです。」とか言いだしてくれなかったら、司法試験にも公務員試験にも直結しない問題を、必修科目の枠内で取り上げるとか、授業とは別枠の学習会を主宰するとかいうのはやりにくかろうと思います。学生にとって実益のある勉強と、そうでない勉強の間にはっきり境界線が引かれているような気がします。そういう雰囲気になっているのは多分法学が、司法試験などの資格試験と結びついてきたゆえの精神的制約によるのではないでしょうか。資格試験にあまり縁のない学生と一緒に何か新しいことを始めるということも可能性としては考えられますが、それはそれでどこにモチベーションを求めたらいいのかわからないので、難しそうな気がします。
 実利中心的な発想から抜け出すべきだと思っておられる先生は少なくないと思いますが、自分だけ単独で何か変わったことを始めようとしてどうにもならないので、そうした問題意識を持っていらっしゃる方はもどかしく感じているのではないでしょうか。実験的なことを試みる余裕のある大学で、ある程度の成果――何をもって成果というのかがまた難しいのですが――があがれば、次第に広がっていくかもしれません。少なくとも、必ずしも法律を専門にしない人間にとっても有意義な教育にすべきであるという考え方をカリキュラムに徐々に反映させていくべきであろうとは思います。」

〈仲正先生流の法学入門は?〉

大村:「すごく面白いお話しだと思います。子どもっぽいということを言われましたが、学者の世界にはアマチュア的なものが嫌われるところがあると思います。プリミティブだけれど究極的な答えは出ないかもしれない問いに取り組むことは、なかなか勇気がいりますが、やらねばならないと思います。面白いのは、先生が「法~」と付くような授業を割り振られたと仮定されたことです。もし金沢大学で先生が法学入門をお教えになるとしたら、主な要素に何を入れたいとお考えになりますか?」

仲正:「いかなる制約もないという前提で考えれば、法学概論の枠内で、先ほどからお話している、「権威」をめぐる諸問題を集中的に論じてみたいと思います。なぜ裁判は短い時間で答えを出さないといけないのか。法的な答えがないと、誰がどのように困るのか。白熱教室でやっているように、具体例を示して、まず学生の意見を聞いて、議論を進めていきたいですね。答えを早く出さないといけないような問いと、延々と考え続けてよさそうな問いを対比して比較、その違いを考えさせる。それと連続する形で、裁判員裁判の迅速化について考えるのがいいかと思います。誰のための迅速化なのか、迅速化によって失われるものは何かを実例に即して考える。そうやって、時間と法的な答えの関係についていろいろ考えたうえで、法的な答えの「正しさ」とは何なのか、それには「権威」が伴っているのか、その場合の「権威」はどういう性質のものなのかについて考える。加えて、「合意」については、どういう時に「合意」が成立したと人々は見なすのか、法学の教科書にあるような定義を離れて考えてみたいと思います。法学の授業では、お店で買い物して代金を支払うのも法律行為であり、そこには合意があったと見なされることを前提に話が進んでいくことが多いですが、具体的でやや複雑なシチュエーションを思い浮かべながら、どこで私たちは合意したつもりになったのか、その後の自分の態度がどう変化するかを考えてみたいと思います。サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の中に、合意が成立しているのかどうか曖昧な状況で、自分の車の修理をしてくれた人に対して、謝礼を支払う義務があるかという話が、実例に即して出てきます。彼はそのケースを、契約の本質は、合意か相互利益かをめぐる、自らの正義論の核心的な問題と絡めて分析していますが、そういうのをやってみたいと思います。そこから問題を発展させて、近代の法理論は、法は人々の最も基本的な合意としての社会契約を起点としなければならないとしているが、それは本当かを改めて考えるということもやってみたいと思います。ドイツの法学に大きな影響を与えたカール・シュミットのように、法の本質は人格的決断だという人もいます。合意をベースに考えるのは本当に合理的であるかじっくり考えてみたいと思います。
 あと、自己決定とかプライバシーとか、明確に概念規定されておらず、意見の分かれそうな問題を取り上げてみたいと思います。先ほどのコーネルの出している例のようなものを、「イマジナリーな領域への権利」には言及しないで、素材として出したらいいかもしれません。試験では、「プライバシーが中心的な争点になるような身近な紛争の事例を示したうえで、その例に即して、プライバシー概念の本質は何か、あなたの見解を述べなさい」というようなタイプの問題を出したらいいのではないか、と思います。」

大村:「ぜひやっていただきたいと思います。いずれも法や法システムの特質と関わることで、学生に、「それについてのある感覚を最初にもとう」、あるいは少なくとも実定法の知識とは違い、「それだけはもって帰ってほしい」と伝えた方がいいということですね。」

仲正:「そうですね。実際にはピンとこない学生の方が多いのではないかと思いますが、少なくとも教える側では、法学の共通の基本であるはずの、合意とか強制とか権利とかについて考える機会を提供し、法学における「学説」の意義をちゃんと教えるべきである、という意識をちゃんと持った方がいいと思います。やってみて、実利とは別に、「法」そのものに関心を持つ学生が多ければ、入門部分だけでなくて、専門化された科目も、もっと普通の人の感覚に即したものになった方がいい、という考え方が広がっていくのではないでしょうか。」
大村:「非常に面白いお話です。法学の外から見たご意見をいただくことは大事だと思いました。試験の制約とか法学部の様々な制約で、これをやらなければならないということでやってきたけれど、教わる側から見ると当然に必要とはいえないし、法や法学についての状況を伝えるという観点から見ても、最適なやり方でもないかもしれないということをおっしゃられたと思います。
 先生は大学の制度の中での制約があるかもしれないけれどもという前提でおっしゃっていますが、そんなに動かない前提なのかということも含めて、考え直した方がいいだろうと伺いました。」

〈今後の法学について〉

大村:「まだ伺いたいことがたくさんありますが、時間がなくなってきました。これまでのお話に基いて、法学がもっている特色を示し、かつ批判も随所に含まれているといいと思いますが、先生のお仕事と絡むような形で、今日、法学はどうあるべきか、書いていただけないでしょうか? この『学問の取扱説明書』ですと、法学部の学生にはなかなか手が届きにくいので、法学だけ独立させて書いていただけるといいと思います。」

仲正:「考えてはいます。例えば『権威の倫理学』というタイトルの本が書けないか、考えています。権威を単にネガティブなものと捉えるのではなく、合意形成したり、物事の方針を決めたりするときに、その結論を確定するために、何らかの形で受け入れないといけない(かもしれない)ものとして徹底的に考えてみたいです。単にえらいものだから受け入れるのではなく、納得した上で受け入れるには、権威をどう捉えたらいいのか。法学と倫理学の境界的な分野で、権威についてこれまで論じられてきたことを総括したうえで、何か自分らしいことを言えたらいいな、と漠然と考えています。」

大村:「権威・正統性と制度については、どのようにお考えでしょうか?法学の中で考えたとき、制度の持つ意味についてこういうことを伝える必要がある、ということはありますか?」

仲正:「制度には両面性があります。社会秩序維持という目的にとって最も合理的な制度を設計すべきであり、そういう制度が出来上がったらそれを守っていくことには正当性 があるという合理主義的な見方が一方にあり、他方には、明確な意図を持って設計されたわけではなく、慣習的に何となく形成されただけど 、長い時間同じような形で持続している制度は、その持続しているという事実によって、人々に支持され、役に立っていることが明らかなのだから、正統性を帯びているという保守主義的な見方もあります。拙著『精神論ぬきの保守主義』では、後者の側面について論じました。法の正統性にはその両面性があると思います。ローマ法が今でも民法の中で活用されているのは、それ自体が合理的であるというより、ヨーロッパ社会で何世紀にもわたって使われ、それに人々が馴染んでいるという事実ゆえの安定性や信頼感があり、それを引き合いに出すと物事が解決しやすくなるという、慣習的な制度としての機能をもっているからだと思います。法学者は近代合理主義者を自認していることが多いので、表面的には、存在理由のわからない非合理的なものは合理的なものに置きかえていくべきだと考えがちですが、実定法と法学の中には、慣習であるがゆえにいつのまにか妥当性を獲得した観念や教義がかなり入り込んでいると思います。
 マックス・ウェーバーも、実定法の効力の基盤である「合法性への信仰」は、合意だけでなく、「強制と服従」の事実からも生まれてくると示唆しています。そうした観点から、「権威」と「合意」について考えてみたいとは思っています。」

大村:「おっしゃる通りだと思います。法が成立した当時は、いろいろ欠陥があるだろうと思っていたはずなのに、100年以上もやってくると、これで今までうまくやってきたのだからいいのではないかという力が働くということがあります。より合理的なものはこれでしょうという議論を提示しても、これを変えたらどういう不都合が働くかわからないという力を無視できないと強く感じます。
 ぜひ、『権威の倫理学』に、法学部の学生も手に取ってくれるようなサブタイトルをつけていただけたら、と思います。」

仲正:「だいぶ先の話になると思いますが。」

大村:「今日はありがとうございました。」

改訂版〈学問〉の取扱説明書

改訂版〈学問〉の取扱説明書 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 仲正昌樹 著
 四六判
 398頁
 2011年4月
 1,800円(税別)
 作品社

 

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