「法学教育」をひらく(第6回) 松尾弘先生 その2

〈法学入門と開発法学〉

大村:「慶應大学には、法学入門はありますか?」
松尾:「1年生科目に『法学Ⅰ・Ⅱ』があります。経験豊富な先生方がご担当で、それぞれの専門分野も題材にしつつ、法律の用語や文章の特色、法源や法体系の問題、法解釈の基礎、司法制度のほか、憲法・民法・刑法などの基本法分野の基礎知識も扱っておられます。基本的に実定法学入門の色彩が濃いようにも思われます。また、若手も含めて、各法分野の10名以上の先生方がオムニバスで担当されている科目『法の基礎』もあります。」
大村:「松尾先生が仮に法学入門の担当を頼まれたとして、開発法学の素材を生かして教育をすると考えた場合、どんな授業をされますか?」
松尾:「社会の仕組みのなかで法がどのような役割を果たし、社会の発展を促すために法がどのような役割を果たしうるか、そして、法というものがその背後にある政治や経済の動きと相互作用して生成・変化するダイナミックなものであることを実感できるような授業が理想です。まさにモンテスキューがいう『法の精神』ですが、それを伝えたいと思います。このような観点から、法学入門としての開発法学の題材を考えた場合、開発プロセスで法がどのような役割を果たすかが注目されますが、主に3つの局面があると思います。第1に、国づくりの局面、第2に、成立した国家が直面する経済成長や民主化といった開発目標を達成するための政策を実施する局面、第3に、独り立ちした国家が、グローバル化に象徴されるような、国際社会や外国からの様々な要求に対し、自国の歴史と現状を踏まえつつ、長期的展望の下で対応していく局面です。第1の局面では、既存のルールがないところで、法秩序をどうやってつくるのか、政治的闘争と妥協の帰結をどうやって法的に正当化するか、様々な例があります。ネパールでは、暫定憲法に従って制憲議会選挙が行われ、憲法の議論が始まりましたが、政党間の意見が対立してまとまらないうちに、延長決議で合計2年延長した議員の任期が切れてしまいました。暫定憲法にはそれを想定した規定がなく、果たして議員の資格はどうなってしまったのか、どうすべきかが問題になりました。国づくりのプロセスでは、既存の法がない事態への対応が問題になります。それと局面は異なりますが、想定外の状況における法的ルールの構築という点で、阪神大震災や東北大震災のように大災害が起こった時の緊急事態でも、既存の法令に規定のない事態へ対応するためのルールづくりが問題になります。また、第2の局面では、開発のための、時にラディカルな立法の憲法適合性が問題になります。戦後日本の農地改革立法を例にとると、GHQの強い意向が働いていた点での『正統性』の問題や、財産権保障の観点から違憲という考え方もありますが、経済構造の民主化という観点からは『正当性』があり、それが後の高度経済成長の契機になったとの意見もあります。他方、急速な経済成長の裏側で生じた公害問題に法制度としてどう対応をしてきたか、どう対応すべきだったかも、無視できない問題です。さらに、第3の局面では、死刑制度の撤廃、女性の再婚禁止期間など、国際機関などから見直しを求められている法制度にどう対応すべきかも、日本における法発展のプロセスを踏まえて考える必要があります。開発法学の視点からみると,よく知られた題材に対しても、新たに興味が湧いてくるかもしれません。
 ところで、開発法学を教えるようになって、この題材は法学部生やロースクール生になるよりも前の中高生に対しても話題提供できるのではないか、また話題提供することに意味があるのではないかとも意識するようになりました。その1つのきっかけは、修了生で開発法学を志すようになったF君が、中学生の時に授業で日本国憲法の暗記を課され、一生懸命やったという体験談です。裁判官をされているF君のお父さんは、それを聞いてかなり疑問を提起されていたようですが、F君はそれが大事なことであると頑なに信じて懸命に取り組んだそうです。ところが、高校生になって発展途上国の社会を扱った授業をきっかけにして、法律の重要性はその抽象的な文言の背景にある政治的論争や思想背景や文化や歴史であったことにはたと気づき、『それを教えてほしかったのに』と心底思ったというのです。法に対するF君の見方を変えたこうした気づき、法は決まっているもの、従わねばならないものというイメージから、法はもっとダイナミックなもので、社会の変化に応じて変わらざるをえないものであるという意識の芽生えが、外国の、しかも発展途上国の視座から、まさに開発法学の題材を通じて起こったことを聞いて、深く考えさせられるものがありました。F君はこの気づきをきっかけに、法学部に進学したわけですが、そうした気づきがないままに、固定的な法のイメージを抱いたまま、将来を選択している高校生が少なくないとしたら、それはどうなのだろうと思うことがあります。学部を選択して大学に入る前に、法についての柔軟な見方、必ずしも決まりきったものではなくて、自分たちの生活に結びついており、時には自分たちの手で変えていかなければならないし,変えてゆくことができるという気づきを与えるきっかけとして、開発法学の題材が利用可能かもしれません。
 中高生も視野に入れた法学入門として開発法学の題材を用いる場合、既に述べた点とも重なりますが、現在を過去とつながったものとしてみるという視点が強くなると思います。自分の経験に照らしての偏った印象かもしれないですが、中高生にとっては日本国憲法ができたことにより、法秩序の基盤が更新されたというイメージが強いように思われます。しかし、開発法学の題材として取り上げる場合、立法府、裁判所、内閣から、ずっと辿っていくと、大日本帝国憲法よりもさらに前に、漸次的に形成されていきました。それに伴い、明治維新後に動揺していた政治的状況が次第に安定化し、固まっていって、その中で大日本帝国憲法ができ、それに基づいて民法、その他の基本法や産業振興法の整備が進み、政府が主導した開発政策の実施によって近代経済成長が始まりました。ここには政治・法・経済が好循環を生み出した1つの例を見出すことができます。そうしたダイナミックな展開の中で、明治憲法とそれに基づく民法、その他の法秩序の形成が始まりましたが、それはまた新たな経済的・政治的な難問に直面し、明治憲法の改正手続を経て、日本国憲法へと橋渡しされています。開発法学の観点からみると、現在の法秩序が明治期のそれと断絶していないこと、現在の制度が過去の延長にあること、制度的連続性があるのではないかということも、問題提起してみたいと思います。現在は明治ともつながっていることを確認したいと考えています。」
大村:「明治以来の日本の歩みを法学の観点から捉えて、高校生や大学新入生に説明することは非常に意味があると思います。私もよく学校の先生に申し上げますが、高校生にとってはやはり世界史や日本史が大事なので、世界史や日本史をどうとらえるのか、その中に法や制度という観点を入れてどう説明するのかが、世界史を理解するうえでも日本史を理解するうえでも非常に大事だと思っています。こうした認識を松尾先生も共有しておられると思いました。
 もう1つ、私はロースクールで旧民法の講読をしています。旧民法は、我々にとってはある意味では外国法です。」
松尾:「そうですね。おそらく当時の日本には馴染みがなかったであろう法概念や法制度が相当含まれているように思います。」
大村:「外国法だというのは、法律がそうだというだけでなく、旧民法が前提にしている社会が我々にとって想像しにくい。明治初期の、民法典ができる前の社会ですよね。この社会に民法典というものが持ち込まれるプロセスをもう一度追体験する。そこには実定法を知るのとは違う意味があります。裁判所はあるけど、それ以外はないわけです。そこに制定法源を持ってくる。統一国家も通貨高権も確立していない。その感覚がないと、金銭債権に関する規定の意味もわからないと思います。私たちの社会だってこういう社会だったのだとイメージして、初めて制度理解ができる。何もないところで裁判をやっていて、それでもルールはある。そこに法典が入ってきたときに、当時の日本の法律家たちがどういうふうに受け止めたのかを追体験するのは、すごく意味のあることと思ってやっています。自分にとって意味があるので、学生にとっても意味があるはずと思います。」
松尾:「私も非常に興味を惹かれます。社会の状況や仕組みそのものが今とは大きく違っていたこと、そのことを想像しつつ、日本が受けた法整備支援の成果としての制定法をどのように受容しようとしたのか、そこには驚きや懐疑や動揺、並々ならぬ苦慮や試行錯誤があったのではないでしょうか。民法典論争の実質も、そうした視点からみる余地があるように思います。はたして『法の継受』ということがどのようにして可能になるのか、それが何を意味するのか、それは世代を超えた長い営みであるのかもしれません。そういうことも考えさせる契機になると思います。ちなみに、今カンボジアでは日本が起草支援した民法典の普及活動が法整備支援の一環として行われていますが、カンボジアの実務家や法学生は、大村先生が旧民法を読んで追体験を試みておられることに、ある面では近い気持ちをもって、民法典に向き合っているのかもしれません。」
大村:「明治維新の段階から考え直すというのは、そういうことだと思います。今はその痕跡でしかないから、元の形がなかなか理解できないところがありますが、元の形からさかのぼって全体を見ることに意味があると思います。先生にはぜひ、中高生に法学入門を教えていただきたいと思います。」
松尾:「機会があれば、日本と外国の法整備支援のプロセスで起こった出来事のほか、よく知られた身近な題材も使って、それを開発法学の観点から見直すことも含めて、試みてみたいと思います。将来の進路がこれからという中での話題提供には、意味があると思います。」
大村:「それを書いた本を出していただけると、ありがたいと思います。」

〈法整備支援と日本の法学のあり方〉

大村:「開発法学は、実践的には法整備支援と結びつきます。法整備支援とはどのようなもので、日本で法学を学ぶ人々にとって、どのような意味を持つのかお話しいただけますか。」
松尾:「法整備支援は一般に、法令の起草支援のほか、法制度を運用する法曹等の人材養成支援、および法制度の適用対象である市民の司法アクセスの改善等を支援するものです。日本は1990年代半ばからベトナムへの民法典・民事訴訟法典の起草支援を皮切りに、カンボジア、ラオス、ネパールといった国々に対し、法律の起草支援、法制度を運用する人材の養成支援等を中心に、法制度づくりの支援を行ってきました。民法典支援では森島昭夫先生が、民事訴訟法典支援では竹下守夫先生が、この活動をリードしてこられました。星野英一先生もこの活動に高い関心をお持ちで、毎年、大阪で開かれている法整備支援連絡会には、毎回出ておられました。法整備支援というと、『発展途上国』に対する『立法支援』というイメージが強いですが、それは一面にすぎません。立法支援は出発点の1つに過ぎず、そこから進んで法律を運用するために必要な裁判官・検察官・弁護士・執行官・書記官など、法制度を動かす人材の育成支援へと広がってきました。さらに大事な点は、法の名宛人である一般市民に対し、法についての知識や法の役割、裁判所の利用や弁護士制度について理解を広げ、一般の人が法律制度に容易にアクセスすることができる状態の整備を目指しているということです。誰もがパソコンを使って、いつでもどこでもウェブにアクセスして必要な情報を得られる状態をユビキタスと呼んでいますが、それになぞらえると、法整備支援は一種の法ユビキタス世界とでもいうべきものを目指しているといえます。日本の法整備支援もその大きな流れの中の1つに位置づけられるものです。
 ところで、日本の法整備支援の重要なリソースの1つはODA予算ですので、国家の政策とも緊密に結びついています。日本は法整備支援活動を国際協力の一環として国際協力機構(JICA)を通じて実施していますが、その際には専門的知見をもつ活動主体として、法務省法務総合研究所国際協力部(ICD)の協力を通じて行っています。これがメジャーなリソースです。それとは独立に、ICD独自の予算で行っている法整備支援プロジェクトがあります。また、NGOや大学が実施する法整備支援もあります。ODAとしての法整備支援は、日本企業が進出し、また将来進出する可能性がある地域の法制度基盤づくりに協力することを強調しています。それによって経済交流が深まることが期待されています。それ自体、非常に大事な政策目的です。ロースクールの卒業生もそれに関わる可能性もありますし、実際に派遣されるケースも出てきました。
 しかし、同時に、もう少し広い視野から法整備支援を見ることも必要です。最終的には人々がどの国にいても、どの国の国民であっても、最低限の権利の保障が得られる仕組みづくりです。何か権利侵害があったときに自分がアクセスできる法救済手段がある状態を、できるだけ広める。そのためには、その国のガバナンスというものを構築する必要がある。それに協力している活動の一環が法整備支援です。将来、その活動が広がった時、夢のような話ですけれど、いろいろな国で宗教も民族も社会体制も政治の仕組みも違うけれども、1つの法ユビキタスに近い状態ができていくことによって、国家間の紛争やテロの問題が深刻化する前に何らかの改善がはかられるのではないか。国際平和の手段というか、最近の言葉で言うとグローバル・ガバナンスという言葉になると思いますが、その手段としての法整備支援です。その発想自体は、既に18世紀の終わりにカントが永久平和論の中で論じています。国際平和を実現するためには、国際的になにか1つの機関に権限を集中させて世界政府のようなものをつくるのはむしろよくない。そういうものをつくろうとすると、往々にして偏りが生じがちであるし、何か偏りがあっても、それを修正するのは難しい。それより分権的、分散的にいろいろな宗教や国があり、それぞれが良い統治を備えた国を1つでも多くつくるのが、国際平和を実現する道であることを示唆しています。法整備支援が歩んでいる道も、知らず知らずのうちにその方向に向かって動き出していっていると思います。つまり、国際的な安全保障の一環です。
 実は外国に進出する企業の便宜のためということもまた、そういうところに結びついていて、私は矛盾しないと思っています。いろいろな人たちが興味をもってさまざまな形で法整備支援に参加しているということにも、それを突き動かす衝動のようなものがあるのではないか思います。法整備支援を授業で取り上げることが増えていますが、具体的な技術論や対外政策論とともに、広い視野から法整備支援現象を見ることも大切だと考えています。」

大村:「開発法学の応用理論を考えることと法整備支援との間には重なり合う面と、そうでない面とがあると思いますが、それについてお話しいただけますか?」
松尾:「法整備支援は、一方で、開発法学の理論を応用する場としての意味をもっています。その際には、特定の国家で、その国が現在抱えている開発目標を達成するために、どういう法改革プログラムが必要か、その国のコンテクストに照らしてできるだけ具体的な提案をしてゆく必要があります。その結果、どのような成果と課題が生じたかを確認し、フィードバックすることにより、開発法学の理論を前進させることができるでしょう。その意味では、法整備支援は開発法学の実践面ということがいえると思います。ただし、その場合にも、支援する側が理論を一方的に提示して適用するのではなく、イニシアチブをとるのはあくまでも相手国ですので、相手国とのコミュニケーションの中で、1つの理論としてこういうことがあると提示していくことになります。
 他方で、法整備支援には開発法学の理論の中に納まりきらない面もあります。それは、とくに法整備支援が国家の対外政策の一環として行われる場合に、対象となる法分野の選定、順序、期間、方法などに関して設定される枠組みが、開発法学の理論から見ると、議論の余地があるように思われる場合もあり、率直に議論することもあります。実は、話してみると、最終的な方向性は同じであるけれども、ある段階でとるべき法整備支援の対象法分野の優先順位や支援プログラムのメニュー内容などについて、政治的理由も絡んで、意見がぶつかり合うこともあります。」
大村:「いろいろな思惑で法整備支援に関わっている方がいると思いますが、それらも飲み込んで、大きな流れとして法整備支援は展開していくということですね。法教育もそういうところがあります。いろいろなアクターが、様々な課題意識や法イメージを持っています。みんなそれぞれ、これこそが法教育だと思っていますが、無理にどれか1つに絞り込むというのは法的思考から外れているという印象を持つことがあります。全体がムーブメントとして展開していけばいいと考えています。」
松尾:「そういうところは共通していると思います。」

〈現在の法学教育や法教育に欠けているもの〉

大村:「法整備支援のあり方や将来像に言及されましたが、本書の巻末でも「本来あるべき法学」についてお書きです。現在の我々の法学に欠けていると思われるもの、それはたぶん法学教育や法教育にも欠けていると思われますが、何だとお考えでしょうか?」
松尾:「現在の法学も法解釈学も高度に発達し、議論も緻密になっており、私自身はなかなか欠けているというようなことは言えませんが、法学のさらなる展開方向の1つとしてありうると感じるのは、法学の原点をもう一度考え直してみる余地があるのではないかということです。開発法学の先駆形態はいくつかあって、1つは、法は社会の動きに応じて相関的に変化するダイナミックなものであるというモンテスキューの『法の精神』です。これは開発法学の先駆形態だと思います。もう1つは、アダム・スミスの『法学講義』で、これは講義録ですが、この中でスミスの展開している法学は、国民の法律の基礎であるべき一般的諸原理を探究する学問である、ということと同時に、国家の統治がどういうルールに基づいて行われるべきなのかということで、『統治の原理」についての理論を探究することが法学の役割であると述べています。スミスは国家統治のことをcivil government といっていますが、その主たる関心事項として4つ挙げています。1番目は、所有の安全保障としての正義の実現で、これはまさに今日的意味での法的課題です。しかし、それに加えて、2番目に、policeの問題があり、水田洋先生はこれを生活行政と訳されています。3番目は、国庫収入、国家の財政基盤をつくることです。4番目が、国家の安全保障です。そして、これらの構成要素からなるcivil government を導くべき規則を探究するのが、法学の役割であると述べています。そこには、法学というものが、policeすなわち生活行政、その中心はおそらく今日の言葉でいうと政治・経済ということになりますが、その運営、国家の財政基盤の確立および対外的安全保障を対象とするものとして素描されています。これが最初に開発法学の特徴の中で申し上げた、国家統治の中で法を考えるという発想とオーバーラップすると考えています。法というものは、国家の経済や政治の動きと不可分のものとして捉える必要があるのではないか。ということは、法学の課題としても、そこで論じていることが国家の経済や政治の仕組みに対してどういう意味を持っているか、あるいはそれらからどのような影響を受けているかということを意識しながら、法学の理論を構築するということに大事な意味があるのではないか。そういう方向への法学の展開もあると考えています。
 『本来あるべき法学』というのは口幅ったい表現ですが、新制度派経済学を築き上げた1人であるロナルド・コースが、『合理的な経済人』をモデルにして理論を構築した新古典派経済学を批判する文脈の中で用いた表現に依拠しています。人間は常に合理的に判断して行動しているとは限らず、むしろ実際は、いろいろな制度によってがんじがらめになりながら選択を行っています。そういう制度的制約の中にある、あるがままの人間をモデルにして、経済学の理論を構築すべきであるということで、かれはそれを『本来あるべき経済学』と呼んでいます。
実は、法学も原点に立ち返ると、国家の政治や経済の問題の改善に最終的にどう役立つかという問題意識を最初は持っていたように思います。ところが、法学も経済学も政治学もどんどん専門分化していくに従って、本来持っていた相互の関係についての問題意識をだんだん忘れてしまったというところがあるのではないでしょうか。それをもう一度思い出すことが、新たな方向への展開であると思います。開発法学をきっかけに、経済や政治の動きと不可分に結びついた法への関心、それが今日も『本来あるべき法学』かどうかはわかりませんが、そうした展開も生じることがありうると思います。そういう意味では、開発法学はバラバラになってしまった社会科学の分野をもう一度結びつけるインターフェイスのような意味を持ちうるのではないかと考えています。」
大村:「伺っていて興味をひかれたのは、1つは、法学教育・法教育のあり方との関連です。一方には、こうした教育の目的は市民教育、よい市民を養成することであるという考え方があり、それには大きな合理性がある。他方で、法について学ぶことは社会について学ぶことであり、法学は総合社会科学の1つであるという見方もある。歴史的に見ても、政治、経済、社会学が独立する以前は法学しかありませんでした。法学は原型としての社会科学であろうと思います。この原型を踏まえ、法学を再定義する必要があるというお話として伺いました。
 もう1つは、civil government についてです。この言葉は訳語が難しいですが、社会をどのように構成し、自ら制御していくのかということが、法のあるいは法学の初発の課題であるということ。これは非常に政治的な営みです。civilとpolitic ということは裏表のところと、区別ができるところがありますが、法が持つ政治的側面イコール、ポリスないし社会を作るという側面が重視されていいと思います。
 民法は市場経済のルールなのかというと、私はそれだけではないと思っています。民法はある意味で、法の原型なので、先生のおっしゃっていたcivil government が当然含まれているというか、まさにそのものです。民法学はそういうものを取り出していく必要があると思います。そう考えてみると、先生の民法から開発法学への歩みは、ある意味必然だったと思われます。」
松尾:「自分の意識の中ではごく自然にそちらの方向へ行っていたと感じます。」
大村:「開発法学が学部やロースクールの授業の科目にあることで、小さな一歩かもしれないけれど、そういうものを作り出すことができるし、もしかしたら大きなものになるかもしれないと強く感じます。」

〈開発法学・法整備支援の中での法学教育・法教育〉

大村:「話残したことなど、何か補足はありませんか?」
松尾:「この対談のお話をいただき、ご質問をいただく中で、普段私が考えていることについて、大村先生が深く理解してくださっていると感じ、大変感謝しています。同時に、私が今まで気づかなかった点がいくつかあることもわかりました。開発法学や法整備支援の中で、法学教育や法教育のことをあまり考えていなかったことがその1つです。
 今日の対談を通じて、開発法学の理論としても法整備支援の実践としても、法学教育や法教育をもう少し真剣に考えていく必要があるという思いを強くしたことを申し上げたいと思います。法整備支援は日本に限っても20年ぐらいやってきましたが、まだ初期で、正確な評価ができない段階です。カンボジアの民法典が2011年に施行されましたが、それがどのように社会に普及し、どのように市民の正義アクセスの改善に寄与し、いわゆる法ユビキタスに近づいてきているかという問題について、調査が行われていますが、まだ限られたサークルの中で共有されている知識であるとの見方もあります。
今後この法典をどのように普及させていくかということですが、1つは、いろいろな所で普及活動をすることが大事です。地方でもセミナーを開いたりしています。さらに、法の知識を本当に普及させるためには、その受け皿をもっと早い段階から準備しておく必要があるのではないでしょうか。そのためには、法学教育の段階はもちろん、初等・中等教育の段階から、民法の基礎知識や基本的な考え方について、身近な事例などを通じて親しむ機会を増やしてゆくことも有益で、そういうベースがないと、法の普及も実は難しいのかもしれません。
ちなみに、開発がうまくいくかどうかの1つのポイントとして、アセモグルとロビンソンが『国家はなぜ衰退するのか』」の中で強調したのは、開発のプロセスと成果をどれだけ多くの人々が共有しているか、その包括性、inclusivenessという問題です。彼らは、発展している国と発展していない国の決定的な違いは、政府が収奪的(extractive)か、包括的(inclusive)かにあると述べています。国家が特権階級のために利益を蓄積するシステムなのか、それとも、できるだけ多くの人たちが発展の成果を共有できる仕組みになっているために、より多くの人たちがより活発により多くの経済活動をすることによって国富が増大するシステムになっているのか、extractive かinclusivenessかということが決定的な違いであるといっています。
問題は、そのinclusive なシステムの形成をどうやって促すかということですが、その柱の1つとして、教育が非常に重要になるように思います。民法典についても、民法の知識をできるだけ多くの人たちが共有できるということが大事です。そのための教育も法整備支援のメニューになりうるでしょうし、その方法論は開発法学の重要問題になるのではないかと思います。いずれにしましても、inclusive な発展のために法学教育や法教育の持つ意味を真剣に考える必要があると思いました。」
大村:「ありがとうございます。そのことについて2つのことをエピソードとして申し上げたいと思います。2003年か04年ごろ、ベトナムのハノイでシンポジウムがあり、カンボジアの民法典のことが話題になったことがあります。その時に、明治日本には法典を作り、動かせる法律家がいたことが幸せだったと思いました。先生が先ほどおっしゃいましたが、これを受け入れる側には、国民一般の法的な能力の問題があります。私たちの明治・大正の経験にはいろいろなことがあります。明治期には法学校に通える人は少なかったけれど、通信教育のおかげで予想外に広い範囲に法知識が及んでいたと思います。そういうものなしに法が普及することは難しいと思います。大正期には、出版物の価格が円本ブームで下がり、日本の法学全集も始まりました。1920年代の終わりには『法律時報』が始まり、専門家でない人も読めるものができた。法知識の普及のための基礎能力とインフラがあったことが幸いでした。それを作り出すことは大変だったと思います。」
松尾:「おそらく法整備支援のプログラムの中で、法学教育や法教育はまだ本格的には検討対象に入っていないと思います。大学のカリキュラムの中にもう少し比較法の知識を増やすような科目を設けてはどうかというような提案や、名古屋大学の法政国際教育協力研究センター(CALE)がハノイ、プノンペン、その他の大学に設けている日本法センターにおける日本語と日本法の教育プログラムなどはありますが、通信制を含めた教育システムや法情報の媒体と関連づけた検討はこれからだと思います。翻って、日本もそういう経験を蓄積し、さらに前進しようとしている過程にあるということでしょうか。普通の生活における必要性を実感しながら、社会の仕組みの一部として法を捉えるということは、ごく自然なことですし、自然に法を学べる空間がさらに広く、厚くなることは非常に意味のあることだと思います。」
大村:「開発法学の課題は、途上国だけでなく日本国内にもあるとおっしゃいましたが、例えばこれから日本が移民社会になっていくと、ニューカマーの子たちが日本社会に適合して、自分たちの権利を主張していく上で、この人たちに一定の法的素養を持ってもらうことは大事なことですね。我々が法整備支援で行うべき法教育と連続している課題だと思います。」
松尾:「本当にそうです。共通していますね。」
大村:「国内で通常想定されている典型的な法教育の場面以外の教育の場面があると思いますが、その延長線上に途上国の教育の問題があるのかなという印象です。」
松尾:「日本に居住する日本人と外国人,法整備支援の対象国に住む内国人と日本人を含む外国人,それぞれに対する法教育をできるだけシームレスに考えてゆくことは重要です。それは相互理解やコミュニケーションを促すでしょうし、紛争の予防や解決にも通じると思います。それがないと、問題が起こったときになかなか議論がかみ合わなかったり、事態が深刻化したりして、それからでは手遅れではないかと思います。」
大村:「そのほかには、よいメディアが存在することが大事だと思います。1970年代以降、裁判報道が増加しましたよね。これが国民の法意識に及ぼす影響が、すごく重要だと思います。だから、一般メディアが法について適切な報道をすることが大事です。日本の国民の法素養が上がるには、日本の大新聞の司法記事のレベルが上がることが重要な条件です。法学部出身者がもっと司法記者になるといいと思います。
 最後に言い残したことがあれば、お願いします。」

〈自然法との関連性について〉

松尾:「開発法学・法整備支援と自然法との関連性について申し上げたいと思います。グローバル化が進んでも、各国の法システムはそれぞれの国の歴史的な発展経緯や現在の社会構造に応じて多様なものであり続けると考えられます。それゆえに国際社会は多元的なものであり続け、法もそうであると考えられるのですが、カントの話にも出たように、多元的法システムの中でも相互作用の結果、一部ルールが共通していって、それをシェアしながらお互いに敬愛の念をもってやっていくということが、国際平和の1つのイメージです。法整備支援もそういう状態に向かう活動の一種だと思っています。その際に、違う国のシステムがぶつかり合ったり、相互作用したりしながら、共通ルールを見い出そうとするときの1つの手がかり、比較基準として、自然法論が役立つのではないかと考えています。自然法論は各国の国家法に委ねられるべき部分から、各国共通のルールを識別しようとしています。法整備支援でも、民法草案に対してコメントする際に、各国の法政策に委ねられる部分と共通原理に属する部分との識別基準として、議論の前提に使っているのではないかと思うことがあります。自然法論も一様ではありませんが、人間本性論に基づいて展開されてきた法理の蓄積があります。それを1つの比較基準として用いることにより、異なる国の法制度を特徴づけ、言葉遣いや概念構成は違うけれど、実は共通部分があることを発見する道具、田中耕太郎の用語によれば『法的公分母』になるのではないでしょうか。そういう形で、比較法とか立法学などの実践的な法学研究の1つのツールとして、自然法論が役立ちうるのではないかという気がしています。そのようにして、民族や文化や慣習の違いを超えて、自然法論が1つの共通言語のような形で役立つことにより、異なる法文化間の対話の余地を生み出すきっかけになるのではないかと思います。
 現代における自然法論のもう1つの意義は、今、各国で起こっている政治の強さに対する法の力の復権に関わります。例えばエジプトやタイのように、クーデターによって憲法が停止され、暫定憲法を経て、国民投票等にかけて新憲法が制定され、またクーデターで覆されては、憲法の停止、暫定憲法、憲法制定を繰り返して社会が続いていくという問題があります。政治が法を単なる手段として使っていて、いわば法が政治をコントロールできていない状況です。このことは最近の日本にも見られるように思います。このような法と政治の綱引きの中で、1つの大事な課題は、法がどのようにして政治をコントロールできるか、その際に政治をコントロールできる法の力の源泉とは何かということです。そのことを考える際に、例えばホッブズの自然法論は、法の力の根源として、reasonを強調していたことが注目されます。国王権力を法がどのようにコントロールできるかという、17世紀の半ばにイギリスが直面していた政治状況の中から、ホッブズの自然法論が生まれてくるわけですね。どのようにして法のreasonが政治権力をコントロールできるか、その原理について彼は追究しました。そういう自然法の法理が、政治と法との綱引きの中で法のあり方を考えていくときに、今読み返されるべきものであって、開発法学はそういうものを読み返す重要性を再認識させる1つのきっかけを提供すると思います。このようにして、開発法学と法整備支援は、自然法を追究してきた自然法論と密接な関係をもつものであると思っています。」
大村:「自然法は概念の中身が多様なので、人によって受け止め方が違いますが、いまここにある実定法と別様の仕方で我々が法を観念し、それが実定法や政治権力に対して、ある力となりうるのではないかという観点を持とうということですね。ヨーロッパの中で生まれたものだけが自然法かといわれれば、そうではないかもしれないけれども、ヨーロッパで歴史的に生成してきたものは、私たちが現在において持つべき視点を獲得する上での大きな要素として再発見して活用していくということが必要ですね。さらに言えば法というものを見るうえでも必要なのではないかという印象を私自身も持っています。開発法学はそういう面に改めて光を当てるというご趣旨ですね。」
松尾:「はい。国家の開発プロセスにおいて、法は政治や経済との相互作用の中で、ある条件が整うと大きな力を発揮してきました。そういう歴史的事実を踏まえて、開発法学がこれから追究してゆくべき課題として、法が政治や経済との絡み合いの中で、それぞれが相互の前進を促すような好循環を生み出すメカニズムの解明があります。パターンは1つではなくて、いろいろなパターンがありうると思います。そのためには、各国の開発プロセスで実際に起こったことを比較検討していく作業が必要です。出発点になるのは、おそらく法と政治と経済の好循環が最初に生み出されたのがイギリスのケースですね。既に話に出ましたが、17世紀になると有力な市民からなる議会が王権に対して力を持ち始め、王権を制御していこうとする動きが出てきた時に、大きな意味を持ったのが権利章典です。権利章典には法原理に基づく説得的なreasonが示されていて、そこに足場を築いた新たな政治権力が、社会の安定をもたらし、そのことがより多くの市民の経済活動の自由をもたらし、そこで蒸気機関や紡織機などのいろいろな技術革新などが立て続けに17世紀の後半から起こって、産業革命に通じていきました。さらに引き続き、より広い範囲の市民への教育の普及とか機会の拡大、労働条件の改善のための法改革に結びついていったという形での好循環です。政治発展と法改革と経済発展の間に良好な関連が生まれた1つのパターンですね。では、日本や韓国や台湾の場合はどうか。マレーシア、シンガポール、香港はどうか。中国、ベトナム、ラオス、カンボジアはどうか。インドネシア、東ティモール、フィリピンはどうか。スリランカ、ミャンマーはどうか。インド、パキスタン、バングラデシュはどうか。悪循環のケースもあると思います。そういうものを比較しながら、いかにして法改革が政治や経済に働きかけながら、それらの間に良好な関係を築くことができるか、その因果関係の解明が、これからの課題だと思っています。そこにしばらくは関心を寄せて研究したいと思っています。」
大村:「非常に面白いお話だと思います。私は近年、韓国で授業をすることが多くなっています。東アジアとは狭い意味では、中国のほか日本・韓国・台湾のことですが、日本・韓国・台湾は1980年代末から水平比較ができるようになりつつあります。そのときに比較社会発展論、ここで発展というのは、いい方向に行くかどうかという意味ではなく、evolutionという意味での発展ですが、そういう観点が東アジアで共通の法学を展開するための基礎になると考えています。十分にやり切れていませんが、日本で東アジアの法を教え、東アジアで日本の法を教えるときの視点の1つはそこだと思っています。松尾先生に比べると狭い範囲の話ですが、我々にとっては切実な問題と思っています。先生のおっしゃった流れの中の1つのあり方として、あってもよいものだろうという印象を持ちながら伺っていました。私のやり方も広い意味では開発法学の中に含めていただけるかなと思います。」
   

開発法学の基礎理論

開発法学の基礎理論 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 松尾弘 著
 A5判
 336頁
 2012年10月
 3,600円+税
 勁草書房

 

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