「法学教育」をひらく(第6回) 松尾弘先生 その1

〈著書と著者のご紹介〉

大村:「松尾弘先生は、慶應義塾大学教授で民法がご専門です。民法の教科書や『民法改正を読む―改正論から学ぶ民法』のほか、法哲学に関する業績も多くおありです。同時に、松尾先生の大きな関心の対象は「開発法学」であり、『良い統治と法の支配』(日本評論社、2009年)、『開発法学の基礎理論―良い統治のための法律学』(勁草書房、2012年)の2冊、雑誌『法学セミナー』の連載「開発法学のフロンティア」がおありです。
 この対談では『開発法学の基礎理論』を取り上げます。『開発法学の基礎理論』は、法学入門ではありませんが、「開発法学」の「基礎理論」には、「法学」の「入門」として読み直せるものが含まれているだけでなく、従来の法学入門が視野に入れにくかった問題・視点が提示されています。こうしたインプリケーションを取り出すことが、今回の目的です。
 本書の「はしがき」をイントロダクションとしてご紹介します。
 「開発法学は、法制度改革を手段として開発を進め、社会の仕組みを改善し、人々の間の正義を実現し、それを通して人間の幸福を実現することを目指すものであるから、社会の仕組みの中で法制度が果たす役割を明らかにすることが、開発法学の理論枠組みの基盤となる。」
 ここには、「法制度改革による社会の仕組みの改善」(社会改革)、「社会の仕組みの中で法制度が果たす役割」(社会認識)という視点が示されていますが、これらは「法学教育」「法教育」においても共有され、強調されるべき視点であると思われます。この点に留意しつつお話を伺うとともに、(法整備支援に従事し、これを教育に取り込む)法学部・法科大学院の教員として、法学教育(あるいは法教育)についてお考えになっておられることを伺いたいと思います。」

〈「開発法学」とは〉

大村:「まず、「開発法学」とは何か、本書の内容がどのようなものか、を簡単に説明していただきたいと思います。」
松尾:「開発法学は、開発を通じて社会の発展を促すために法をどのように用いることができるかという問題意識のもとに創られてきた学問分野です。開発は、人間の活動の中で特色のある活動です。なぜなら、人間が社会に対して、一定の目的をもって働きかけを行う、特に、国家の政府が市民に対して働きかけを行い、経済成長とか民主化の進展とか、発展の目標達成を促すという、多かれ少なかれ人為性・政治性を帯びた営みだからです。こうした『開発』概念を背負いつつ、開発法学はそれぞれの社会が直面している開発課題、たとえば、国づくり、経済成長、民主化、グローバル化への対応等を促進するために、法をどのように活用しうるかという戦略的な側面をもちつつ、そのためにも法改革と社会変動の関係を理論的に解明する必要があるという問題意識の下で創られてきた学問分野である点に特徴があります。
 その特徴を3つ挙げますと、第1に、国家の統治の中で法の存在意義やそれが果たす役割を捉えることです。第2に、国家の歴史的発展プロセスと現在の社会の構造に応じて、どういう社会の形がふさわしいかということとの関連で法を捉えることです。それゆえに、開発法学は法がそれぞれの国家の歴史的発展段階に応じて内容が異なりうる、相関的・動態的なものというイメージで法を捉えるところに特徴があります。そうなると、第3に、法に対する開発法学の問いかけ自体が特徴的なものとなります。つまり、抽象的に「法とは何か」と問うのではなくて、「現在のこの国において法はどのようにつくられ、どのように機能しているか、それをどのように改革しうるか」というふうに問わないと、開発法学的な答えが出てこないという点に特徴があります。法がどのようにつくられ、どういう機能を果たしていて、どのように変更されるかは、社会によってかなり違ったものであるように思われます。たしかに、いろいろな国際交流や相互作用が盛んになるに従って、法が一部共通化してくるという現象が段々進んでいるとは思いますが、それでも法はそれほど画一的なものではないのではないか、という基本認識から開発法学は出発しています。
 開発法学は1950年代の終わり頃からアメリカのロースクールを中心として発達してきましたが、いまだ理論枠組みが確立されているとは言えない段階にあります。そこで、本書では、まずは60年に及ぶ学説史をフォローしてみようというところから始めました。そのうえで、開発法学の現在の到達点と課題を整理し、さらに、理論枠組みの基盤を構築するということが、本書の目標です。
 開発法学の課題としては、4つの大きな柱があると考えています。第1に、社会の仕組みの中で法が果たす役割を明らかにすることです。第2に、どういう法改革をすれば経済成長とか民主化といった開発目標を達成できるか、政治改革や経済発展と法改革の関係を明らかにすることです。第3に、そもそも法改革を通じて達成しようとしている開発の究極の目標は何かを探求することです。ここでは、経済成長も民主化も、それ自体が最終目標ではなく、さらにその先にある目標の達成に向かうための1つのプロセスであって、最終的には、抽象的にいえば、人間の幸福ということをより先にある目標として考えざるをえないように思います。そうでないと、経済成長政策と民主化政策の両立が難しくてぶつかり合ったときに、それをその国家としてどのように調整すべきか、答えや手がかりを探すことができないからです。そこで、個人個人の主観的な幸福の捉え方の違いを超えて目標にすべきものがあるかどうかということを論じることが避けられないように思います。この3つが開発法学の基礎理論と言えるのではないかと考えます。その上で、第4に、特定の国家において、その国家が直面している開発目標を達成するためには、どのような法改革のプログラムを組むのがいいのかという、具体的な法改革のプログラムを、その国家の歴史と現在の社会状況に照らして明らかにすることが、大事な課題です。これは開発法学の応用理論ということができます。これらの課題を整理したうえで、本書の主眼は、第1の柱である社会の仕組みの中で法が果たす役割を解明することにあります。それに加え、理論的・抽象的な議論ですが、第3の柱である開発の究極の目標についても、大まかな議論の整理と現時点での私見の提示を試みました。なお、第2の柱である法改革が経済成長や民主化にどういう影響を与えるか、逆に政治や経済が法にどういう影響を与えるかについては、先にご紹介いただいた法学セミナーの連載(2014年4月以降)で、具体的な国を例にとって研究を始めたところです。さらに、第4の柱である特定の国家の法改革プログラムの策定という応用問題については、法整備支援の経験も踏まえて、今後取り組んでみたいと考えています。
 第1の柱に関しては、社会の仕組みを4つのレベルから見ることから出発しています。社会にはまずは複数の人間が存在する。これが最も経験的に捉えることのできる社会の第1レベルです。つぎに、社会では複数の人間が大小様々な組織を構成して生活している。これが第2レベルです。しかし、その組織が成立し、存続するためには、その上に目に見えない制度というものが存在する。これが社会の第3レベルです。法もおそらくその制度の一部であると理解することができるでしょう。さらに、社会の第4レベルとして、諸制度間の整合性を保ち、かつ必要な制度であるが欠けているものを明らかにするための正義論のような規範理論が社会においては要請されることも事実です。もっとも、それは容易に統一されるものではなく、したがって、他人に押し付ける類のものでもなく、あくまでも規範『理論』ですが、それを探求する意義は否定できないでしょう。こうして個人・組織・制度・規範理論という、社会学理論を参考にした社会認識論を提示したうえで、第3レベルの制度の一部としての法の役割を明らかにすることが、本書の主眼です。」
大村:「本書の4つの柱をあげられましたが、第1の社会の仕組みの中で法が果たす役割と、第3の開発の究極の目標に重点を置かれているということですね。その意味でまさに基礎理論だと思います。第2の法改革と政治や経済発展との関係、第4の特定の国家における具体的な法改革のプログラムは、先生の中では応用と位置付けられると伺いました。
興味深いと思ったのは、「制度」をどのように捉えるかが重要だということです。社会学で言われる「制度」は、法律家が考える「制度」とは少し違って、様々な要素を前提としつつ人が相互に予期しているものを指しています。先生は、法も「制度」の一部であるとお考えだと伺いました。私も、その意味での「制度」にいかに働きかけるかということので、どういう法制度を作っていくかが意味をもつという制度イメージをもっています。法学も一般的な制度学というか、そういうものの一部をなすものとして位置づけたい。社会科学の共通の要素、プラットフォームは「制度」というものであって、「制度」をそれぞれのディシプリンに応じて突き詰めていくことと考えています。まさにそこに先生も重点を置かれていると思います。法学の学生にも、早い段階でそういうことをわかってほしいと思っています。」
松尾:「おっしゃる通りだと思います。法は法以外の身近な社会のルールと不可分に結びついていることを意識することにより、法への興味が湧いてくるのではないでしょうか。」
大村:「もう一つ面白いと感じたのは、今のこととの対応で、法を2つのレベルで捉えておられることです。どの社会にも固有の法がある。しかしそれに対して、働きかけていく際の法もある。働きかけられる法は多くは伝統的・慣習的なものであるのに対して、働きかけていく法の中心部分は、法律その他の国家権力の強制力を伴った制定法になると思います。日本ではもちろん法社会学の伝統があるので、本来は私たちはこうした二元性に対して敏感なはずなのですが、社会が一定程度成熟して制定法が社会を覆ってくると、少なくとも実定法学の世界ではこの点に対する感覚が昔に比べると希薄化しているところがあると思います。開発法学はそこのところをもう一度私たちに気づかせてくれます。私たちもこういう状況を経て、法を生き、法を捉えてきたことを再確認させてくれます。もっと言うと、開発法学の観点から日本法を見直すとどうなるかという観点も興味深いと思いました。」
松尾:「法の二元性を意識することは、制度の中で法を見ることとも関わって、本当に大事なことであると私も思っています。私たち人間の行動を現実に導くルールの集合体としての制度には、法以外にも、宗教・道徳・習俗など、さまざまなものがあります。私たちの普段の生活の中で、一番依拠している制度は何かというと、おそらく当該地域に普及している伝統的な習俗とか、当該社会で共有されている日常の道徳とか、あるいはそれを信じる者が自発的に守っている宗教的ルールが圧倒的に多く、法は非常に少ない部分を占めていると思います。にもかかわらず、法のもつ重要性は何かを考えることにより、法に対する見方が現実性をもつと思います。大村先生のおっしゃるように、制度は2つの意味をもっていて、一方で、人間の行動が制度に服するようになり、他人の行動をある程度予期する、読むことができるようになることにより、社会が安定化するという意味で、制度は不可欠です。この局面では、法は既存の制度を承認する形で、急激な変化を回避し、制度の安定化に寄与しています。他方で、社会がその内外で生じた人為的事件や自然的事変により、現在の状況をたとえ一部の者の意に反しても変えなければならなくなったときに、ある一定の方向に人々を誘導する手段もまた制度には組み込まれている必要があります。この局面では、法は立法者が目論む行動へのインセンティブまたはディスインセンティブを人々に与える手段として用いられます。この時に既存の制度とは異なる法がにわかに前面に出てきて、制度の主役を演じることになります。法律を勉強し始めると、いきなり制定法の解釈が中心に据えられ、より身近な制度との連続性が捨象されてしまいますので、馴染み難さや違和感を覚えるのだと思います。しかしながら、社会の制度全体の中で法がもつ《安定を保つ作用》と《変化を引き起こす作用》の二面性を意識することにより、法が一層現実味を帯びた、身近なものに感じられるのではないでしょうか。この意味で公平な視点から見ることが法を理解するために必要だと考えます。」

〈実定法と開発法学のつながりに関して〉

大村:「民法学と開発法学の関連、あるいは民法学者としてキャリアを始めた方がいかにして開発法学にたどり着くかをお話しいただくことが、ある意味で実定法と開発法学のつながりについてご説明いただくことになるのではないかと思います。」
松尾:「振り返ってみるといくつか動機があります。最初、法に興味をもったのは、世の中の仕組みを知りたいという欲求からです。そのためには法が手掛かりになると思いました。法は社会を知る入り口として有益ではないか、手掛かりになるのではないかと、いろいろな問題意識を掻き立て、漠然とした興味を感じました。そのようにして、社会の秩序を維持したり、不満を改善するために法制度が果たす役割に、だんだん関心が向いたのがきっかけでした。とくに民法がもっているベーシックなルールとしての重要性というか、法制度の中でも所有とか契約とかいった根本的な基礎的なルールを作っているところに、興味を惹かれました。
 こうした経緯もあって、法哲学や法思想にも興味がありましたが、法や正義の問題も、所有権や契約という具体的な、しかし基礎的な制度との関係でみる必要があると感じていました。そうすると、社会の仕組みを知る手掛かりとしての法は、民法に非常に深く関わると意識するようになりました。そうした私権の概念が基層の規範ないし第1次規範としてあって、それを国家という仕組みを通じて制度的に承認し、保障するための上位規範ないし第2次規範として憲法が重要な意味をもつ。そうした法の重層構造を通じて社会の仕組みが見えてくるとすれば、まずは基層的第1次規範としての民法を勉強することが社会の仕組みを知ることへの第一歩に通じると感じました。少なくとも私の学生時代は、高校までの法律の話は憲法が中心でしたので、法というとまずは憲法というイメージでしたが、今までもっていた法の平面的なイメージと実際の重層構造は少し違うと気づくようになり、そうであれば根本的なところからやってみたいと思い、まずは民法に興味が湧きました。
 そこからさらに開発法学に向かったきっかけは、社会に大きな事件が起きるたびに《不条理》というものを感じたことがあります。たとえば、内戦や外国の介入によって権利侵害を受けているのに、救済されずに泣き寝入りしている多くの人が放置されているとか、あるいは社会の格差が加速度的に拡大して、自分がどのように生まれついたかによってどれほど努力しても意味をなさない閉塞状態が進行しているとか、窒息しそうな状況ですね。私が開発の問題を意識して勉強を始めた頃、国連開発計画が1990年から人間開発指標というのを公表し始めました。識字率とか平均修学年数とか平均余命とか1人当たり国民所得とかを構成要素とする指標ですね。そうした数値はあくまでも手掛かりにすぎませんが、1人当たり国民所得が1年間に3万ドルを超える国があるかと思うと、300ドルに満たない国もある。平均しても100倍を超える、そういう違いが起こっているというだけでなく、それが年々広がっていくことが目に見えてわかってきました。これほど国際協力が叫ばれるようになり、実際それをやっている人々や活動も年々広がっているにもかかわらず、格差がますます拡大していくという現象を、一体どういうふうに説明できるのだろうか、また、そういうことに対応する手立てが何かあるのかと思うようになりました。
 1990年代は、1989年末の冷戦終結宣言を機に、国際社会は平和になっていくと期待されていたにもかかわらず、その後2001年に9.11事件が起こり、テロの応酬と内戦がむしろ増えてきています。その後すぐにアフガニスタンでタリバン政権を転覆させて新しい国づくりをしようという試みが始まり、2003年にはイラクのフセイン政権を倒して新しい国づくりをしようという実験が始まりました。そういう様子を見ていて、ある国家の政権を打ち倒し、ゼロから国づくりをすることが、しかも外国政府が関与してそうすることが、無邪気なほどに無謀で無責任なやり方であることは明白だと感じました。そういうあまりに不条理な事件に直面して、簡単に問題解決はできないものの、何か私たちとしてのコミットの仕方があるのではないかと思ったのです。アフガニスタンを見てもイラクを見ても、武力による問題解決に限界があるのは明らかです。暴力の応酬は終わりがないからです。では、それに代わりうるものは何か。1つのオルタナティブとしては、それぞれの国の中の制度を少しずつでも変えていくこと、その国の統治ができるような状態に少しずつ変えていくこと。そういう国が1つでも多くなってくれば、内戦とかテロの問題とか、時間はかかっても改善する方向に向かうのではないか。少なくとも武力による報復よりは、国家の内部からの制度改善の方が、一見時間はかかりそうでも、着実な、急がば回れの戦略であるように思いました。そのためには社会の仕組みとそこにおける法の役割を知り、国家という社会の仕組みにおける政府の役割を理解する必要がある。とくに内戦やテロに苦しんでいる社会では、所有権や契約といった基本的なルールとそれを実現できる政府の権力が欠如していたり、不十分で、そうした集権化された政府に支えられた企業や市民社会の活動が抑制されているのかもしれない。そのような時に、そうした問題を扱う開発法学という学問分野が成り立っていることを知る一方で、それは法を通じて社会の仕組みを知るという、私が民法に惹かれた問題意識とオーバーラップしており、開発法学をやるためには民法が不可欠であると確信するようになっていったのだと思います。」
大村:「民法に関心をもたれるようになった経緯と、開発法学に進まれるようになったいきさつを伺いました。1つ目のお話で、高校までは憲法中心の法イメージがあったということでした。憲法は非常に大事ですが、他方では高校生には民法はなじみがありません。しかし高校で民法にかかわることまったく聞いていないかというと、必ずしもそうでなく、「倫理社会」などで聞いている話題と共通しているところがあります。先ほど、法哲学や社会哲学といったものが民法と大きく重なり合っているというお話がありましたが、他方で自然法や国際法と重なり合う形で民法の領分があるという感触を、早い段階からおもちでおられたことに興味深く感じました。印象的なのはそれを出発点にして、社会問題や世の中の不条理と言われるときに、先生の興味の対象が世界につながっていったことだと思います。
 私は先に対談をしていただいた高橋眞先生と松尾先生の間の年齢ぐらいだと思いますが、高橋先生や私が民法に興味を感じたのは1970年代の公害訴訟がきっかけでした。先生のお話をお聞きして、80年代後半から90年代の始めというのはそういう時代だったと思います。日本の法学に即していっても、それまでは国内の社会問題にどういう解決を与えるかということに主たる関心を寄せられていたと思いますが、80年代後半から90年代には日本法が世界の中でどんな特徴をもっているかとか、日本法に何ができるかという意識がもたれた時期があります。そうした時代の雰囲気と、先生の開発法学への関心とが連動しているような気がして、興味深く感じました。

〈法学部・ロースクールで開発法学を教える〉

大村:「ひるがえって、開発法学に関する問題意識を、日本の法学部やロースクールで伝えていくことの意義についてお話しいただければと思います。具体的には、先生が慶應大学で行われている教育の中で、開発法学はどのように位置付けておられますか?」
松尾:「私は法学部とロースクールの両方の授業で、開発法学をやっています。まず、法学部では『法と開発』というタイトルの授業をしています。そこでは本書を教材に使いながら、開発法学の学説史と開発法学の基本的な理論枠組みの概説をすることを主眼にして、春学期にやっています。もっとも、授業ではできるだけ具体的な事例に引き寄せて問いかけ、一緒に考え、ディスカッションをしたりしながらやっています。トピックとしては、なぜ制度というものが必要なのか、法律に限らず、私たちの世界には習慣とか、しきたりとか、伝統とか、宗教とか、そういうルールができたのはなぜか、という問いかけをして、議論しています。同時に、制度は変わるのか、制度が本当に変わるとすれば、それはどういうきっかけで、どういうふうにして起こるのか、法律問題に限らずに、できるだけ身近な事例を出し合って考えながら、授業をしています。
 自分が経験した制度変化の例を挙げてみようというと、いろいろなケースがでてきます。たとえば、バレー部に入っていたT君が、従来は『レギュラー選抜は先輩優先』という暗黙のルールだったが、自分はおかしいと思い、自ら監督と何度も粘り強く交渉し、とうとう実力主義による選抜に変わった。その結果、その年から成績が上がり、次の年は部員の数が倍増したという成果が生じたというのです。これは、誰が、誰に対し、どのような働きかけをして、どのように制度の改革が実現したのかを示す身近な例の1つといえるでしょう。興味深かったのは、制度が変化した結果、その成果は良かったのか、不満をもった人はいなかったのかと聞くと、実際成績が上がっただけでなく、部員も増加するという意図せざるプラスの面もあったけれど、その反面、せっかく3年間やったのに、一度も試合に出られなかったという同僚から不満も残り、複雑な心境で部活を終えざるをえなかった、後味は必ずしもよくなかったという感想が語られたことでした。T君が出した例は、制度変化が起きたとしても、その成果が意図したとおりのものであるとは限らず、それ以上のことも、それ以下のこともありうること、しかも1つの成果はアンビヴァレントで、副作用も生じうることを端的に物語っています。そして、予めそういうことを考慮に入れると、制度変化を働きかけるときは、どれだけ多くの関係者が制度変化の働きかけに関わったか、どれだけ多くの者が納得してそれに加わったか、そのプロセス自体が重要な意味をもつということも話題にして議論しました。
 また、制度変化が何を意味するか、制度変化の測定指標なども議論になります。法律が国会を通過しただけでは、制定法の条文は変わっても、制度が変わったとはいえず、書かれた法と実際に行われている法の間にギャップがあることも珍しくありません。一体どういう場合に本当に法と制度が変わったといえるのか、様々な見解が現れます。この開発法学的な問いは、法の本質が何かという問いと不可分です。あるルールが法であるためには何が決定的に重要なのか、そのルールが国家の強制力によって支えられていることか、そうだとすれば国会の承認を得たことは重要な意味をもちます。それとも新たな法に対する人々の同意が必要なのか、あるいはもう一歩進んで、人々が新たな法の内容を良いものと評価すること、人々の気持ちや規範意識が変わることまでが、制度変化があったというためには必要なのか。いずれ法整備支援で何をどこまでやるか、どこまで関わるべきかという場面で問題になることを題材にして、授業をしています。
 つぎに、ロースクールでは『開発法学』という授業名で、やはり半期の授業を春学期にしています。また、秋学期には『法整備支援フォーラム・プログラム』という授業名で、法整備支援の実践に携わる実務家も時々招いて、各国における法整備支援プロジェクトの内容、および対象国を理解するための授業も設けています。『開発法学』と学部の授業との違いは、制度一般の問題からもう少し法制度に踏み込んだトピックをできるだけ取り上げるという大まかな視点で振り分けてやっています。開発法学のトピックのうち、法改革を通じた制度変化という点から見て現実に大きな問題になっているのは、とくに身分制度をもった社会における法改革です。たとえば、カースト制度が存在するインドとかネパールでは、法律の上では憲法でもカースト間の平等ということを謳っていますが、実際の社会ではカースト間の婚姻とか社会的交流は非常に制約されていて、カーストが違うと同じ部屋で食事はとらないとか、下位のカーストの人の触ったものには触れないとかいった慣習が、根強く残っています。私はこのところ毎年ネパールへ行きますが、2009年に初めて行った時に、国会(当時の制憲議会)議員の人たちと一緒に夕食をしました。食事が始まって間もなく、ある議員が立ち上がって、『みなさん私の話を聞いてください。』と言い出しました。50歳半ばくらいの方でしたが、ネパール南部タライ平原の出身で、いわゆる不可触選民といわれるクラスの代表者でした。『私は今まで50年以上生きてきて、違うクラスの人と同じ部屋で食事をとるのは今日が初めてです。私のこの感動を一緒に分かち合ってください。』と演説が始まり、ちょっとした歴史的瞬間に居合わせたことに感銘を受けました。しかしなお、これはまだ国会議員同士であるゆえの特別な場合で、一般市民の間では、法律と慣習の間に深いギャップがあり、それが根強く存続しています。
 そういう現実の状況を前提にして、人間の平等ということが考えられるか、法的な観点からみて、あるいは人権の観点に照らして、現在の制度に許容困難な限界があるのなら、それを変化させることは可能なのか、ということを題材にして議論し、簡潔なレポートを出してもらい、フィードバックして議論することもしています。学生からはいろいろな反応があり、「法律でサンクションを加えて、意識的に変えていかねばならない」という意見もあるし、「カースト制度イコール悪であるとは必ずしもい言えない。そのカーストの中で自分が安心して生活していける、社会の安定が維持されるなど、何らかの合理性があるのかもしれない。カーストを前提にした平等もありうるかもしれない」という議論があり、答えは出ません。そんなことを題材に議論し、何らかの改革方向がある程度固まるのであれば、それをどうやって制度変化へと展開させていくのかを考える、ということをしています。」
大村:「ありがとうございました。法学部とロースクールの授業は、内容というか、重点を置いている点は必ずしも同じでないということですね。法学部では面白い授業をされていますが、学年の配当はどうなっていますか?」
松尾:「3年生以上です。」
大村:「そうすると、すでに実定法をかなり勉強している学生ですね。」
松尾:「そうです。約8割は法学部生の3,4年生です。もっとも、学部を超えて履修可能ですので、履修者の中には文学部、経済学部、商学部の学生もいます。」
大村:「ロースクールも選択科目で、2年生以上ですね?」
松尾:「はい、そうです。」
大村:「ちなみに、法学部とロースクールで履修者はどのぐらいの人数ですか?」
松尾:「法学部の方は70~80名。ロースクールも60~70名ぐらいです。」
大村:「それはかなりの数ですね。学部の授業は3年生ぐらいから法学部の学生が聞くとなると、今まで実定法を勉強していたときのいわば暗黙の前提になっていたところが揺さぶられるような経験をするということになると思います。そのことには大きな意義があるのではないかと思います。もっと早い学年であれば、今度は実定法に入る前のイントロダクションとして、こういうことを踏まえて実定法をやったらいいということになると思うので、どの学年の学生が来ても意義があると感じました。
 ロースクールでも開発法学を伝えたいというお気持ちがあると思いますが、将来の法曹にもってもらいたい資質と関連付けるとき、この開発法学の授業が目指すものは何か、あるいは、ロースクール生に対して、この授業を通じてこういう資質や能力を獲得できますよというところを言語化していただくと、どうなりますか?」
松尾:「それにお答えする前に、ロースクールの授業で意外だった経験をお話ししたいと思います。開発法学は、題材としては、いわゆる開発途上国で生じている貧困や不平等の問題を取り上げることが多いのですが、それは開発途上国だけを対象とするという意味ではなく、日本も含めていわゆる先進国も開発法学の対象となります。なぜなら、完全に発展しきった国がない以上、どの国も何らかの意味で発展途上のプロセスにあり、それぞれの国に開発課題があるはずだからです。そういう開発課題に対して、法制度改革がどういう役割を果たすのか、そういうことを探究するのが開発法学です。ところが、開発法学というと発展途上国に対して先進国が法制度づくりの支援をする方法論を考案する学問であるというイメージが広がっていて、やや上から目線で遅れた国に法制度を教えてあげる、作ってあげるという誤解も少なくないのです。実は、開発法学はそうではなくて、すべての国に当てはまる普遍性をもっています。日本の場合も少子化・高齢化、中央・地方間格差の拡大、限界集落・崩壊集落、経済停滞、格差拡大、グローバル化のインパクトと農業・農地の維持困難、安全保障体制の動揺、米軍基地の存置、災害予防の不備、アグリーな景観など、多くの開発課題を抱えています。授業では、日本にも開発法学の題材が数多くあることの再確認から出発しています。かつて、日本にもいろいろな開発課題があることを具体的に共有すべく、今、日本が直面している開発課題は何か、それに対して、どういう法改革が可能かを問いかけたとき、幾人かの学生が、『今の日本には問題がない』といい、『非常に満足している』、『自分にとって不満な点はない。法律家として、安定した社会の中で、自分の役割を果たせればそれでいい』という回答をしており、それが1人、2人ではなかったのがショックでした。
 ここで、大村先生の先のご質問に戻りますと、開発法学を通じて、第1に、いわゆる発展途上国と先進国という区分は相対的なものでしかなく、日本もまだ数多くの開発課題を引きずったままの発展途上にあり、それを改善する手段としての法改革の余地が膨大なものであって、そのために法律家が活躍しなければならない場面が無数にあることを発見する力を涵養できることを伝えたいと思います。第2に、グローバル化が進行する中で、日本の発展と他国の発展はますます緊密に結びついており、たとえ外国の開発課題に対し、法制度改革を通じて解決するために、何らかの形でコミットすることは、今や法律家の使命であることを自覚する契機になることも伝えたいと思います。第3に、開発法学は法律家だけの学問ではなく、企業の従業員としても経営者としても、あるいは市民としても開発課題の法的または制度的な解決にコミットする意義と必要性を自覚する契機になるでしょう。実際、ロースクールを出た人の中には、法曹になる人のほかに、企業やNPO等の組織に勤める人もいますし、自営業を営む人もいます。開発法学は日本や外国の開発課題の法的または制度的解決には様々なチャンネルがあり、いろいろなコミットの仕方があることを明らかにするでしょう。企業に勤めていても、製品やサービスの安全基準やいろいろな規格、その他の業界スタンダードとか、国際標準づくりに関わることも増えています。さらには、NPO活動や一市民の日常行動として、法律に限らず、社会における様々な制度改革の提案をしたり、コンプライアンスの実践にコミットするときに、開発法学の知識や視点を用いることができる、ということを伝えたいと思います。そして、第4に、開発法学の限定性に関する以上の先入観を取り払ったうえで、開発法学はおよそ社会において法制度がもつ存在意義を知り,社会の発展のために法制度を役立てる方法を学ぶものであることを知ってほしいと思います。」

大村:「後半のお話の中で伺いたい点が2つありますが、1つ目は、日本には問題ないということで出発点での開発法学のイメージとしては上から目線だという見方が強いということでした。しかし、実際に開発法学を学ぶことを通じて、外国の問題から、日本にも問題があるということを発見できる。この点について、学生たちの履修前後における法のイメージの変化をどうお感じになられますか?」
松尾:「授業評価は毎回行っているものの、開発法学を履修する前の学生の認識が、履修後に具体的にどのように変化したかを正確に検証していませんので、今後の課題ですが、学期末レポートなどを読んでいて、学生が変化を示したり、発見をしたと感じたことはあります。とくに印象に残っているのは、レポートの課題として、日本の開発課題の発見と法改革のあり方を取り上げたものは確実に増えています。また、現在の日本の法制度が日本国憲法によって更新されて新たに始まったのではなく、それ以前の制度改革の歴史と連続性をもっていることに気がついて、レポートの考察対象にしたものは少なくありません。それに気づいたきっかけが、外国、とくにいわゆる発展途上国の法改革プロセスをみたことにあり、ああ日本もそういうプロセスを進んできたし、今なお進んでいるではないかということを実感し、他国の視座から日本を見て、日本のことを改めて知る経験をしていることは確かです。その点で、ひいき目かもしれませんが、視野が広がっていることは明らかであるように思います。」
大村:「それはすごく大事な点だと思います。開発法学もそうだと思いますが、日本の実定法はそれなりの発展を遂げて、それなりの精密さをもっています。その中で議論をするというのは、窮屈というか息苦しいところがあると思います。ところが、ある意味で開発法学のようなものを与えられると、イマジネーションが活性化するようなところがあると思います。
 先生がなさっていることとは少し違いますが、私も外国で授業をする際、『これは皆さんの国の実定法の話ではないから、「日本法ではこうならなければいけない」というように考える必要はない。こういう問題があって日本のルールはこうだということを私が話したら、皆さんは、それではこう考えてはどうかということを日本の判例などにとらわれずに議論できるでしょう。それは自国の法制度や法の問題を考えるときの力になるはずです。情報が十分にある自国法の勉強をするのは窮屈だけれど、情報の不十分な外国法について勉強するのだから、精一杯想像力を使って議論してください』という形でやります。学生にとってはプラスアルファの選択科目の授業であるという事情もあると思いますが、かなり自由に議論をしてくれて、ときおり比較が思ってもみないレベルに進むことがあります。これは外国で教えることのメリットだと思います。学生の議論から、その国の法律について新しい見方を教わることもあります。開発法学も、国内で日本の学生相手にそういう意味をもつのではないかと思いました。
 もう1つは、法律を作るだけでなく、様々な場で何らかの基準とか規格とか仕組みを作り出すというお話でした。それは狭い意味での法律家の仕事の外にあることかもしれないけれど、法学部やロースクール出身者が実際にたくさんやることです。そういう形で何か新しいものを、小さなものでも作り出していくことを感じ取ってもらうことは大事なことと思います。『社会の仕組みを改善していくやり方はいろいろあるけれど、皆さんいろいろなところで、いろいろなことができますよ。職場で直面した問題について、今勉強したことをもとにして、1ついい仕組みを作れば、世の中に大きな影響を及ぼしうるかもしれないし、そうでなくても一定の小さな影響は生じるでしょう』そういうメッセージを含んでいるような気がします。」
松尾:「まさにそういうことだと思います。とくにロースクールの学生は、仕方のないことですが、将来の職業イメージがステレオタイプになりがちで、大きな法律事務所に入ることをよしとする傾向もあります。しかし、ロースクール修了生の活躍の場面は思っている以上にたくさんあるということを、開発法学や法整備支援の題材を通じて伝えることもできると思っています。法律事務所に限らず、会社やNPOのほか、自治体においてできることも少なくありません。会社については先に述べましたが、自治体の条例づくりのほか、地方の抱えている問題、たとえば廃棄物処理、高齢者ケア、空き家、税金徴収などの問題があって、そういうものへの制度的対応の方法に取り組む修了生も出てきました。それらは開発法学の1つの応用分野になっているといえます。実際、自らの出身地の田舎の自治体に就職して活躍している卒業生に授業で話をしてもらうなど、協力してもらっています。」

「その2」に続きます。〉

   

開発法学の基礎理論

開発法学の基礎理論 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 松尾弘 著
 A5判
 336頁
 2012年10月
 3,600円+税
 勁草書房

 

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