法学部教育から見る法教育(第1回)谷口功一先生(法哲学)・後編

前編からの続き)

<高校までの教育に望むこと>

宍戸先生:高校までの教育に望むことはありますか?
谷口先生:繰り返しになりますが、高校の現代社会は非常に範囲が広く、これを教える先生方は本当にたいへんだなと思います。
 中等教育の段階では、まずは、かつての「素読」のように言葉を暗記することから始めるのでもよいと思います。最初は丸暗記だったとしても、学習を進めていくなかで、後から理解がついてきますし、考える足場となります。言葉(特に固有名詞)を知らなければそれすらもできませんから。
高校までの教育においては、知識を定着させるという教育も重要なことだと思います。
宍戸先生:法教育では、考える力や議論する力の習得を目指す取組みがなされていますが、それについてはどんな印象をお持ちですか?
谷口先生:たとえば、法と道徳を論ずるときに典型的な論点として出てくるのは同性愛のテーマですが、中等教育においてこうしたセンシティブな問題を含む議論をさせることは難しい面があるかもしれません。教育はある種の強制を含むものですので、論争のあるテーマに関しては慎重に対応すべきだと思います。
宍戸先生:主権者教育において、架空でもいいし実在のものでもいいのですが、複数の政党とその政策や綱領を提示して、「あなたはどの政策を支持しますか」ということを考えさせる訓練をするという取組みが一部でなされています。中立性を保った授業になるよう研修を受けた弁護士が学校に出向いて関わる場合が多いようですが、こういった取組みについては、どのような印象をおもちですか?
谷口先生:おもしろいとは思いますが、どうなんでしょうね。しかし、そもそも現行の選挙制度について正確に理解している大人は意外に少ないのではないでしょうか。授業では、まずは基本的な選挙制度を理解させることのほうが必要かなと思いますが、非常におもしろそうな授業だと思います。

<法学と法教育>

宍戸先生:では次に、新学習指導要領の答申案等を参考に、今後の法教育の在り方についてのご意見をいただけますか。
谷口先生:高校までの教育は、大学での教育より広汎な人数が対象になりますので、この段階で法に関する教育をすることが本当にいいことなのかどうか、私は実はよくわからないのです。人生においては、法的なものに関わるということは必ずしも望ましいことではなかったりします。
 元検事総長で弁護士の但木敬一先生のエッセイが新聞に載っていたのですが、その中で、医者は愛されるものだが法律家は煙たがられると比較されていました。なるほど、医者は患者に感謝されてまたこの先生にかかりたいとか言われますが、法律家にはそういうことはあまりないですよね。「あの裁判官は良かったから、次もまたあの裁判官で!」とはなりません。次なんて無い方がいいわけですから。ましてや検察官なんて絶対に関わりたくない。医者は愛され感謝されるのに法律家は報われないですね。
 「良き法律家は悪しき隣人である」という言葉があります。法的なマインドをもつことの絶対的核心の1つは、適正手続(due process)を重視することにあると思うのですが、これは一般の方にはなかなか理解されにくいことなんですよね。われわれも学内の組織に行政人として関わるとき、「法学部の先生はやたら形式性とか手続性にこだわる」と他学部の先生方に煙たがられているように感じます。こういったことは大学に限ったことではなく、社会一般でも同じだと思います。
 法に関する教育というのは、円滑に人付き合いをしていく中では、実はあまり好ましくないマインドを養成する部分があるのではないか、という懸念があります。とはいうものの、人間が暮らしていく上で、紛争がないということはありえないわけです。むしろ、関わるときは否応なく巻き込まれていきます。そんなときに専門家として対処するのは法律家で、いないと困るのは確かです。
 法学部の1年生に法学とはどんな学問かを説明するときのたとえとしてよく出すのが、法学は結局、漫画版の『風の谷のナウシカ』に出てくるクロトワみたいなものだ、という話です。トルメキア王国の参謀で、謀略とかにもすぐれているが、所詮、王にはなれない存在。法学はそんな参謀体質だと思うのです。一方で、政治とか経済はクロトワの仕えている燦然と勇ましいトルメキア王女のクシャナですね。
 でも、法学には別の側面もあります。もう1つ、よくたとえとして話すのが、『ライ麦畑でつかまえて』という小説がありますが、原題は「The Catcher in the Rye」です。主人公は、子どもたちが自由に駆け回って遊んでいるライ麦畑で、彼らが崖から落ちそうになったときに、どこかからさっと飛び出して行ってその子をつかまえる役割、つまり、「ライ麦畑のキャッチャー」に自分はなりたい、と言うのです。法に関わる仕事って、基本的にはそういうものなんじゃないかなと思うのです。ライ麦畑を翻訳した村上春樹の言葉をもじるなら「社会的雪かき」みたいなもので、光輝くような創造性はないけれども誰かがやらなければみんなが困る、必須かつ重要なものなのです。
 法学は、華やかさはないけれども渋い、いぶし銀の学問。一方で、政治とか経済は純然たる創造行為ですよね。ある種のアニマル・スピリットというか起業家精神なんかがまさにそれです。でも、そんな政治や経済と法学は両輪の存在で、この社会にはどちらも必要なものです。
 また、法学はいわばオトナの学問ともいえます。社会と接することによって初めて理解できる部分があります。無産者である学生に、抵当権とか代物弁済とか言ってもわかるはずがない。わからないまま大学を卒業していって仕事を始めて何年かしてようやく理解できたという人も大勢いるくらいですから、高校生がわからないのは当たり前だと思うのです。
宍戸先生:法律家が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だというたとえはなるほどと思いました。そこから一歩進んで、一般の市民が法や政治に対してどの程度の関心や理解をもつべきか、ということは課題としてあると思うのです。今までは、法律家というのは悪しき隣人ですが、権力や権威を身にまとっていて、雪かきしている人がいたら、市民の側でなんとなくよけなければいけない、という風潮があったと思います。ただ、法律家がそういう位置づけのままで、今後社会全体が保つのでしょうか。法律家に限らず一般に、大衆化・情報化が進む中、専門家の権威が低下していっていますよね。
谷口先生:長谷部恭男先生もおっしゃっていたと思うのですが、法律というのは非常に人工的で不自然なものという側面があるので、なかなか一般には受け入れがたい、そして身に付けがたいものなのではないかと思うのです。法教育は興味深い試みだとおもうのですが、果たして本当に一般に根づくのか? ということには、正直、疑問をもっています。 

<法と政治との関わり>

宍戸先生:次に、法と政治との関わりについて伺いたいと思います。政府には、非常に多くの行政課題をマネジメントして、公正な手続で国民間の利害調整を図っていく能力が問われるようになるし、国民の側も自分が適正に取り扱われているのか、政府の行う政策手段が自分たちの納得した目標をきちんと達成できているのかについてチェックして投票するというある種のプロジェクトとして、政治が変化してきているという見方もありますよね。つまり、道具としての法と国民の政治参加が連動してきているという側面があると思うのですが、その点についてはいかがですか。
谷口先生:選挙民が政策を個別に実質的に判断することは難しいと思うんですよね。能力の問題ではなく、単純に忙しいし関心もないので仕方ないと思うのです。あと、すべての人がそういうことに関心をもっている社会というのも少し気持ちが悪い気がします。
 政治学者の砂原庸介さんが『民主主義の条件』という本の中で、「政党」についてもっとみんな真面目に考えたほうがいいということを書いています。私も、そういう意味での主権者教育が必要だと思っています。
 政党に対して不満をもつ人は多いですが、砂原さんの説明にもあるように、それは政党が近代化していないからというところもあると思います。私はある政党の正規の党員なのですが、なぜ入ったかというと、それはその政党の党首の選挙に参加するためです。こういう人が増えれば、多くの人に監視されるから不適格な人が議員になってしまうことのないように防ぐことができるし、資金の流れ等も見えやすくなるのではという思いもあります。
 日本では、政治というのはちょっとダークなイメージがあって、つるんでいた仲間でも政治家になると付き合いにくくなったりすることがあったりします。でも、政治はわれわれみんなに関係のあることだし、一般の国民が政党に入ることは普通くらいの感覚になってほしい。そういう方向から主権者教育のアプローチもできるのではないかと思っています。
宍戸先生:普段は政治から離れているのに選挙のときだけ急に万能になるような主権者像には私も違和感があって、今のお話を聞いて意を強くするところがありました。
 主権者教育の取組みで、国によっては順番にいろいろな政治家を呼んで学校で話をしてもらうところもあります。中立性に配慮しながら生徒たちに政治に触れてもらう。身近な形で政治や政党に触れさせるという教育をすべきだという考え方もあるようですが、これについてはいかがでしょう?
谷口先生:それも面白いですね。すごい政治家には実際に会ってみるとやっぱりオーラがあるものです。いろいろな人に触れる経験は教育上いいことだと思います。

<新科目「公共」のイメージについて専門的見地から>

宍戸先生:2022年度から新科目「公共」が始まり、学校現場にまた今までやってきたことと違う内容が入ってくることになります。数年後、学校の先生方が「公共」を教える上での注意点やアドバイスがあればお願いします。
谷口先生:「公共」は「公民科」の中に新たに共通必履修科目として新設されるとのことですが、公民科で目指す「公民としての資質・能力の育成」というのは、正義論でいう「公民的資質(civic virtue)」そのもので、びっくりしました。また、新学習指導要領答申案で、「公共」科目について「自立した主体とは、孤立して生きるのではなく、他者との協働により」とか「家族・家庭や地域等にあるコミュニティを基盤に」と書かれており、これは共同体論そのものではないか!と、たいへん驚きました。
 「公民的共和主義」と「共同体論」は親戚関係のようなものなのですが、共和主義というのは、要するに、自由で平等な個人が公開の場所で討議して自分たち全員に関わる事柄についての公共的決定を自分たちで下し、それを自分たちで実行することです。そこでは消極的自由(~の自由)より積極的自由(~への自由)の方が意味あるものだとされています。そして、「共同体論」においては、その名の表す通り、共同体(コミュニティ)そのものの価値やその歴史等が重視され、やはりここでも政治参加するのはいいことだ、という話になります。
 「公共」が実際の科目として定立されたときに内容がどうなるかというと、いま説明したような正義論にまつわる話一辺倒には必ずしもならないだろうとは思いますが、一つの大きな方向性としては法哲学における公民的共和主義とか共同体論に完全に一致している話なので、方向性を理解する上では、法哲学や正義論といったあたりの話を理解しておくのは意味があることだろうと思います。
 私の研究は、そもそも「公共性の概念」から始まりました。「公共性」は単なる「共同性」とは異なるもので、「公共性」があるといえるためには、普遍的な理由に基づいて正当化ができないといけません。慣れ合いとか少数者への抑圧といったことから抜け出したものでなくてはならないのです。
 そういった意味で、「公共性」と「共同性」の1つのメルクマールになるものが「法」ではないかと思うのです。そこにこそ、法教育が生きてくる部分があるのではないかなと思います。
宍戸先生:本日は、谷口功一先生をお招きして「法学部教育から見る法教育」ということで議論させていただきました。法教育・主権者教育の意義について再考を迫るような根底的な問題提起をいただいて、さすが法哲学者! という刺激的な議論ができたと思います。
 本日は長時間ありがとうございました。
谷口先生:こちらこそありがとうございました。

 

<参考図書>

ショッピングモールの法哲学 

-市場、共同体、そして徳

ショッピングモールの法哲学 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 谷口 功一 著
 四六判
 234頁
 2015年2月
 1,900円+税
 白水社

法哲学

法哲学 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 瀧川 裕英,宇佐美 誠,大屋 雄裕 著
 A5判
 416頁
 2014年12月
 2,800円+税
 有斐閣

 

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