法学部教育から見る法教育(第2回)和田俊憲先生(刑事法)・前編

宍戸先生 宍戸先生:「法学部教育から見る法教育」の第2回は刑事法をテーマとして、慶應義塾大学法科大学院で教鞭をとられている和田俊憲先生においでいただきました。現在は最高裁判所判事になられた山口厚先生の愛弟子として非常にブリリアントな刑法の論文をお書きになるだけではなく、法学部生、法科大学院生向けの教材にも多く関与していらっしゃいます。また、弁護士として、裁判にも関わっておられますし、それから鉄道オタクといいますか、「法鉄学」という分野を開拓されて、『鉄道と刑法のはなし』という新書も出しておられるという、非常に多彩な才能をおもちです。今日は法教育について面白い話を聞かせていただけると思います。よろしくお願いします。
和田先生 和田先生:よろしくお願いいたします。助手時代は、1年先輩の宍戸先生は席がお隣でした。こちら側から腐れ縁と言うのは失礼ですが、なにかそういう繋がりがありますので、今日も楽しくお話しできればと思います。

<刑法の美しさに魅せられて>

宍戸先生 宍戸先生:和田先生の方から、研究されている刑事法の分野のご紹介も兼ねて、少しご自身について語っていただきたいと思います。まず、刑法の研究者になられたきっかけについてお話しいただけますでしょうか。
和田先生 和田先生:現在、所属はロースクールですが、学部、大学院を問わず、全学年の刑法を担当しています。そもそもなぜ刑法の研究者になったのかを振り返ってみますと、法学の研究者になることを前提として、なぜ刑法研究の道を選んだのかに限定していえば、やはり、刑法が一番美しいと感じてしまったからです。
宍戸先生 宍戸先生:美しいというのは、どういうことですか。
和田先生 和田先生:数学的な美しさを感じてしまったということです。法学部2年生の時に受けた、山口厚先生の刑法総論の講義を聞いて、体系的に整っていて、判断基準が明確で、でも単純ではなくて、というあり方が美しいと感じたのです。一定の公理を決めた後、体系的に発展していく数学の世界に通ずるものがあると思いました。
宍戸先生 宍戸先生:刑法で美的な体系性が重視されるのは、どこに原因があるのでしょうか。
和田先生 和田先生:全世界の刑法がそうなっているわけではなく、日本やドイツに特有のものなのでしょうが、なぜでしょうね、そういうものに美しさを感じる人が多く担ってきたからというのが大きいのかもしれません。
宍戸先生 宍戸先生:刑法研究者にとっては自明のことなのかもしれませんが、外から見ていると、罪刑法定主義とか刑罰権の発動について明確性を担保するという内在的な事情も一定程度あるのかな、と思うのですが。
和田先生 和田先生:そういう意識はないですね。少なくとも、普段から意識に上がらせて考えているわけでは全然ないです。
宍戸先生 宍戸先生:空気のようにそういうものだということですか。
和田先生 和田先生:罪刑法定主義といっても、今の日本の最高裁判所は相当に柔軟な解釈をとっていて、むしろ結論の妥当性の方が重視されていますから、実務的にそういう要請があるわけではないと思います。
宍戸先生 宍戸先生:そういう意味では、実務では民事法など他の分野では結論の妥当性を重視する中で、理論として刑法学は非常に体系性を重んじるということですか。
和田先生 和田先生:重んじてきた。
宍戸先生 宍戸先生:他の法学の分野からみても刑法学はパズルみたいだという意識がありますよね。
和田先生 和田先生:そのパズルっぽさが面白い、楽しいと感じる素朴な少年心がまずあったわけですが、もちろんそれだけではなく、体系性の美しさとかパズルっぽさと、実際、社会的に要請のある結論の妥当性の両方を見ながら考えていくことに魅力を感じたということだと思います。ただ、その両者のバランスが、私が助手になってからのこの20年間で相当大きく変わってきました。
宍戸先生 宍戸先生:和田先生の中で、ということですか?
和田先生 和田先生:いえ、日本の刑法学の中でバランスが大きく変わってきました。その原因として一番大きかったのが、裁判員制度とロースクール制度の開始という司法制度改革だと思います。それ以前は、実務家には、「学者が言っていることは結局役に立たん」みたいなイメージをもたれ、逆に、研究者側からすると、「実務はちゃんとした理屈なしに動いてしまっている」というように、別々の世界をそれぞれ勝手に生きるという印象が強かったわけです。それが、司法制度改革以降は、両者をきちんと繋がないといけないという要請が相当強まってきましたし、大学や学会も現にそういう雰囲気になりました。
 ロースクール制度が始まって、現にそこで教える状況になり、体系性だけ追究していけばいいというものではないことが、まさに自分の日々の行動の内容として要請されるようになってきました。刑法学が重点を置くべきポイントが相当大きく変わって、良い学説だと判断される基準も変わってきていると思います。現実の判例をより適合的に説明して、次の判断の指針となるような解釈をし、総合的な判断ができる枠組みを提示しないといけないという具合に変わってきました。それまでは判断する基準が少なかったというか、もっとスパッと切っていたのが、いろいろな事情を考慮した上で、しかも理論的にきちんと根拠づけられるものでないといけないという要請が強まったということです。それは研究者としての感覚からすると「外圧」だったわけですが、結果としては非常に良かったことだと思います。
 その20年というのは私が「オトナ」になる時期と重なっているので、自分の中でも少年のように単に夢を追いかけるのではなく、清濁併せ呑める大人のように行動をしないといけない、そんな自分に変わっていくのと、日本における刑法学の変化とがどこかでシンクロしているので、自分の中ではしっくりきてはいます。ただ、昔の自分が見たら、「あぁ、オトナになっちゃったねぇ」と思うかもしれません。といっても、そんな私も刑法学界の中では「超子供」の地位をまだ維持できていますので、刑法学界全体が相当大人になったのではないかなと感じます。
宍戸先生 宍戸先生:憲法、行政法も、法科大学院制度によって、より実務的な議論が重視されるようになってきた点は同じだと思います。

<弁護士としての和田先生>

宍戸先生 宍戸先生:和田先生が弁護士として活動されるようになった経緯、あるいは弁護士としてのご経験が学問なり学説にどう影響しているのかもお話しいただけますか?
和田先生 和田先生:私が弁護士登録をしたのは8年ほど前です。北海道大学から慶應義塾大学に移り、私立大学の所属になって兼業できるようになったということと、准教授を5年以上経験したことという2つの条件が整って弁護士登録ができる状態注1 になりました。もともと私の父は辞め検注2 の弁護士でして、私が法学部に入った時には、当然、実務家になるだろうという期待があったと思うのですが、私が山口厚先生に感化されてしまって、いつの間にか道を誤ってしまった(笑)。それも、来週には進路の返事をしなければいけないというタイミングで初めてその話を親にしたので、「ということは、もう心を決めているんでしょう?」と言われて、認めてもらいました。
 というわけで、研究者になったものの、実務家の生活がどういうものか昔から身近に見て知っていましたし、充実した仕事であることへの憧れもありましたから、登録できるのならしようということで、弁護士登録をしました。登録すると、実際に具体的な事件が扱えるようになります。民事事件を下手にやっても弁護過誤を起こしてしまう危険があるので刑事限定免許みたいな感じですが(笑)。
 登録した直後は、研修も兼ねて国選弁護を単独で担当したり、その後も、他の方の担当事件の後方支援の形で、弁護活動している人に対して、今、学説の状況はこうだよとか、この判例をこうやって読んだら無罪にできるのではないかといったアドバイスをする形で事件に関わっています。アドバイス自体は純粋な研究者としてもできることなのですが、実際、弁護士登録をしていた方がいろいろな弁護士の方との繋がりもできますし。
宍戸先生 宍戸先生:研究者の目線しかない場合とは、資料の読み込み方なども違ってくるでしょうね。
和田先生 和田先生:具体的な事件で、しかも当事者の顔も見える状態ですと、感覚がまったく違ってくるというのは非常に興味深いことです。逆に言えば、研究しているときはいかに抽象的に考えているかを実感します。具体的な判例を題材にしていたとしても非常に抽象度の高いところで思考している。私もそういうことが好きなのでしっくりきていたわけですけれど、いかにそうであったかが相対的にみられるようになったというのはありますね。
 一般論として、刑事事件で刑法の解釈が問題になることはほとんどないと言われます。その意味で、刑法の研究者と実務家が共有できる問題は多くないというイメージがありますが、実際に事件を担当してみると、意外と細かいところに眠っている解釈問題があることがわかって、それは普通に研究者として考えているとおよそ考えつかないようなものだったりするので、研究者としても視野が広がるということがあり、違った立場を両方経験できるというのはとてもいいなと思っています。ただ、やはり趣味の延長の副業みたいなところがありますし、頻繁にやっているわけではまったくなく、たまに話があれば乗るくらいの感じですね。

<二足のわらじの経験から教育に生かせること>

宍戸先生 宍戸先生:和田先生が、法学部、法科大学院での教育において、将来、法律家になったり、研究者になったり、あるいは一般の企業に勤めて法に関わる学生を広く教える中で、二足のわらじの経験が生きていることはありますか?
和田先生 和田先生:ロースクールの授業で相手にしているのは基本的に実務家を目指している学生なので、そういう学生との関係では、本来であれば、実務経験がある研究者ということで、学生たちが目指す先について話すこともあるのではと思われるかもしれませんが、実はそういう話は一切語ったことがないのです。それは、やはり経験豊富な純粋な実務家教員が周りにたくさんいるからでしょうね。その道40年レベルの大御所が、しかも最高裁判事を定年退職してから来ましたという方々がコンスタントにいらっしゃいますので。ですから、ロースクールで授業をするときは純粋に研究者の顔をしてやるし、意識としてもそうですね。
 いろいろな弁護士が共通して言うのは、実務家になって一番感動する場面は、刑事弁護人として、身柄拘束されている被疑者なり被告人に接見注3して、その人にとって自分しか外部への窓口がない状態で専門家として接する、その状況・場面は非常に特別のものであるし、研修ではそれは必ず経験するはずであるし、その後も大きな渉外事務所に入ってほとんど英語のプロフェッショナルとして民事の企業法務だけやっていくというような人でない限りは、たまにはそういう刑事事件を扱うはずですよね。実務家としての一番コアな部分は、刑事事件のそういうところにあるのではないかなと思います。これは学生たちに伝えられる場面があれば、伝えたいことではあります。
宍戸先生 宍戸先生:身柄を拘束されている人に法的なサポートをするのは、弁護士が基本的人権の守り手であることが、はっきりと表れる瞬間ですね。
和田先生 和田先生:観念的な話としては、それはおそらく高校レベルで学習することだと思いますが、やはり実感することはなかなか難しいですよね。たいてい被疑者や被告人というのは、そうなる前も社会的に弱者であることが多いわけですが、そういう前提にある人がさらに法的に非常に弱い立場に置かれているという、とても特殊な状況ですからね。刑事事件を扱わなくなって何十年か経っているような弁護士でも、「ああ、そう言えば自分の若い頃にも…」といって思い出すような、記憶の底に残り続ける印象深い場面であるようです。
宍戸先生 宍戸先生:法律家としてのイニシエーションというか、原体験になるわけですね。

<現代社会の教科書の記述に関する感想>

宍戸先生 宍戸先生:和田先生もおっしゃるように、高校の授業でも接見の話は出てきます。ここで、法に関する教育内容を刑事法の専門家としてどうご覧になっているか、お伺いしたいと思います。さしあたり、「現代社会」の幾つかの教科書を和田先生に見ていただきました。刑法に関連する記述の感想を、挙げていただけますか。
和田先生 和田先生:まず全体的な印象として、こんなに詳しくいろいろなことが書かれているのが、意外でした。自分が高校生だった時はどうだったのか記憶がありませんが、記憶があったとしても新鮮に思うのではないかなと思います。
 それから少し細かい話になりますが、どの教科書も刑事手続については同じように重点的に書かれていても、こういう行為をすると何罪になりますといった記述の量は、教科書によって結構違いがあるという印象を受けました。基本的にテーマ横断的に書かれていますから、刑法とはどういうもので、どういう行為が犯罪になるということを書く場ではないでしょうが、身近にありうる行為を挙げて、しかも具体的に犯罪の名称を示して「こういう場合に何罪になります」という書き方があった方が、単に違法ですとか、罪になりますというよりもいいかなと思いました。なぜその方がいいのかと理由を問われてもちょっと説明が難しいですけれども、読み手と刑法の距離感を近くできるということでしょうか。
 もう一つ、刑法との関係で注目した点として、「法」は変化しうるものだという記述があるのは大変良いことだと思いました。日本人は、法というのはお上の命令で、自分たちの知らないところで決められて、内容は知らないけれど、どういう行為がどう扱われるのか、かっちり決まっていて容易には動かないものだというイメージをもっている人が多いと思うのです。しかし実際は、意外に法改正は多いし、法律の条文は変わらなくても、解釈でその適用範囲は相当大きく変わりうるし、法は変化するものだというイメージを広めることが望ましいと思いますね。おそらく、法に関して、高校生には当事者意識があまりないですよね。でも、法は変わりうるもので、社会が変われば、それに対応してより適合的な法に変えていけるし、変える主体は自分たちなんだという意識、その「変える」というところをきっかけにして、当事者意識が生まれるのは良いことだろうなと思います。
 ただ、法が変わるというときに、最近、刑法で言えば厳罰化の方向にしか変わっていかないという一方向的な状況は大変よろしくないと思っている人は少なくないと思います。当事者意識がある程度芽生えて、被害者保護は絶対的な正義なんだという風潮が強くなってくると、もう一気に社会がその方向に流れていって、それに対するバランサーが働く余地がおよそない状況になってしまうのも健全ではないと思います。
 たとえば、この十数年、飲酒運転による事故などの交通事犯について刑罰がどんどん重くなっていて、いくら刑を引き上げてもそれで十分だとはならない状態になってしまっています。最近は少し小康状態かもしれませんが。そういう時に「いやいやそれではさすがに重すぎるでしょう」といった声は、かき消されるか炎上注4するしかないわけで、それは刑法に限った話ではなくて、社会全体がそういうコミュニケーションの取り方になってしまった表れの一つに過ぎないのでしょう。そういう一方向にばかり流れる良くない状態を多少相対化させる一つの方法としては、現に厳罰化されている犯罪について議論するのではなくて、まったく別のところで、これを本当に犯罪として残しておいていいのかという、非犯罪化の方向の議論もありうることを社会が共有することだと思います。
 法も時代に合わせて変わりうるという話にしても、重い方向にも変わりうるし、軽い方向にも変わりうるしと、そういう相対化が議論の状況を改善するための外堀を埋める方法としてありうるのではないかと思うのですね。
宍戸先生 宍戸先生:高校の教科書の記述で、たとえば具体的な非犯罪化、脱犯罪化の傾向について日本や欧米での実例を取り上げるというやり方もあると思います。また、法益保護の原則とか罪刑均衡の原則を、刑事法の根本となる大原則として、しっかり高校の教科書や教育で取り上げてもいいのではないでしょうか。
和田先生 和田先生:そうですね、それに関連して、今日この対談のために唯一、準備して持ってきたのが、山口先生が今から7年前に「ジュリスト」の「法教育と法律学の課題」というタイトルの特集の中で書かれた「法教育と刑法」という論文注5です。山口厚先生は刑法の解釈論において法益注6をかなり前面に出す考え方をとっていらっしゃるにもかかわらず、この論文の中では法益の話を一切出していないのですね。刑法は法益を守るためにあり、法益を侵害する行為だけが違法であるという考え方には触れず、むしろ法教育ではそういうことには触れるべきではないとすら思っているのではないかという書きぶりになっていて、ルールを定立し、かつ維持するところに重点を置いていらっしゃる。それがなぜなのか非常に興味深いなと思いました。法益を守るために刑法があると高校生に教えるのは、かえって良くないことを招くのだろうか。個人的には、そういう説明をすれば、腑に落ちる生徒が出てくるのではないかと思いますし、誰かの具体的な処罰を聞いたときに、この人は一体何を侵害したからこういう重さの刑罰になっているのか、ということを考えるきっかけにもなるでしょうし、非犯罪化の話をするときにも、単に秩序やルールを維持するのではなくて、その先で具体的に守ろうとしているものに目を向ける思考自体は有用だと思うのですが、どうなんでしょうね?
宍戸先生 宍戸先生:山口先生がお書きになった7年前の段階での高校の教育現場は、ルールは守らなければいけないもので、ルールを守らないと制裁を受けますよ、という法のイメージがあって、社会規範として法がそういう機能をもっていることは大前提ですので、まずはそこをしっかり教えなければならない。それが当時、高校の教育の現場でできることだったのかもしれませんね。
 我々市民が社会を維持し形成していくための手段として、法は重要なもので、社会の変化に合わせて作ったり、社会のために役に立っているルールかどうかを考えられたりする市民を育てるところに高校の公民科の目的が置かれるようになった現在であれば、山口先生の説明も違ってくるかもしれないですね。
 法益ということで言えば、先ほど和田先生がおっしゃった刑法各論、殺人や放火などのそれぞれの犯罪類型について、こういう行為をしてこういう利益を侵害した場合には犯罪になりますよということを、もう少し教えた方が具体的だという話にも繋がりますか。

<法教育で刑事法について、何をどう教えるべきか>

和田先生 和田先生:そうですね。刑法を対象にした法教育で、現状の法制度がどうなっているかという知識レベルの話と、法が変わりうるものだとして、どういう原則にのっとった形で変えていったらいいのかという、変える場合の指針についての教育とは、まったく次元が異なるものだと思います。
 今の制度がどうなっているかについては、こういう行為はこういう法益を侵害するからこういう犯罪になるという「犯罪のリスト」を知識レベルで伝えることは、現場に余裕があるのであれば、いろいろやったらいいと思います。ただ、法律相談系のテレビ番組などでも、こういった断片的な知識というのは、かなり広まって来ている時代ですので、敢えてそれを高校教育の現場で教えるというよりは、このような処罰は本当にいいのか問いを投げてみて、評価したり批判したりする視点と意欲をもった人を育てることの方が重要だと思うのです。
宍戸先生 宍戸先生:今まで刑事実体法の話をしていただきましたが、手続法に関して、刑事裁判の取り上げ方はどうでしょう。先ほど裁判員制度に触れていただきましたが、それ以外に高校で教えられている内容について、過不足があるとか、刑事裁判についてこういうことを伝えてほしいとか、弁護士でもある和田先生からみて、いかがですか。
和田先生 和田先生:「法の翼プロジェクト」という、後で触れようと思っているものに関係するのですが、刑事法の分野で専門家以外の人に対して、実はこうなっているんですよと伝えて、意外に感じてもらえて、かつ、意味のある内容というのは、やはり刑事手続特有の価値についての話ではないかということは、プロジェクトの中でも議論が出ていたし、実際そうだろうと思うのですね。より具体的に言えば、一般的、平均的な人の感覚からすると、明らかに罪を犯した犯人だと思われる人に対して、しかも本人が「自分がやった」と認めているのに、なぜ国のお金で弁護人を付けて、手厚く保護しながら時間をかけて裁判をして、じっくり吟味するという丁寧な手続を経た上で判決を言い渡さなければいけないのか、と疑問を抱く感覚があると思われるわけです。しかし、実際に罪を犯しているかどうかの判断とは切り離して、あるいは実際に犯罪者とはっきりわかっている人であっても、手続的な利益や権利があるということは、強調してもし過ぎることはないと思います。それは刑事法分野に限った話ではありませんが、手続に関する利益や権利という考え方は相当独特なものだと思いますね。
宍戸先生 宍戸先生:そうですね。法に独特なものですよね。
和田先生 和田先生:それはかなり意識して伝えないと伝わらないことだと思います。また、法に独特の要素だとしても、正式な裁判手続においてしか問題にならない利益かというと、まったくそうではありません。日常生活の中でも、そういう手続的な利益について素養がある人がいた方が、社会がうまくまわる場面が想像以上に多いのではないかと思うのです。たとえば、組織のマネジメントの場面などでもそうです。教科書には、そういう観点からも書いたらいいのではないかと思います。
 教科書の記述から受ける印象として、法についての書きぶりが、先ほどのお上が決めてくれたもので基本的に自分たちにあまり関係ないものだというイメージを突き崩さない記述にとどまっているものが多いという印象です。遠い世界の話のように思われるかもしれないけれども、意外とあなたの日常生活に直接関係するよという話がもっとあっていいと思います。
宍戸先生 宍戸先生:法を「法」として教えようとしがちであるけれども、社会生活の中における法、あるいは法における社会生活の観点から教えた方がわかりやすい、ということでしょうか。
和田先生 和田先生:わかりやすいですし、自分のこととして学ぶ感覚ではなく、単に知識として学んで終わりではあまり意味がない気がします。法教育は自分の実感が伴わない遠い「法律」の世界の話を知識として学ぶことだという印象にするのではなくて、「法的な考え方」が適用されるべき場面には意外と自分も既に巻き込まれているのだと気づいてもらえるようにしたいところです。ただ、現に「法律」が適用される場合については、自分が犯罪の加害者や被害者になりうるという想像力は持たずに、心の平穏を保ったまま生きていく方がいいというのもあるかもしれませんが。
宍戸先生 宍戸先生:手続関係でもう2つほど聞きたいことがあります。一つは刑事裁判で起訴された後の話は教科書にある程度書かれていますが、その前の、先ほどの接見のように、逮捕されたとか、取り締まりを受けた時のことはどうですか。
和田先生 和田先生:そこは意外と薄いと感じました。触れていないわけではありませんが。
宍戸先生 宍戸先生:憲法に刑事手続上の権利に関する条文がある関係で、刑事裁判に至る前の段階での手続の流れはある程度書いてありますが、刑事法の先生からご覧になった感想を伺ってみたかったのです。高校の教育現場ではなかなか言いづらいことかもしれませんが、実際には逮捕された人みんなが刑事裁判で起訴されるわけではなくて、微罪処分で終わることが日本ではかなり多いですよね。
和田先生 和田先生:正しく実態を伝えるのが良いことなのかはとても難しい問題だと思いますが、もう少し具体的なケースとして書かれた方がイメージしやすいだろうとは思います。裁判以降の部分は、ドラマなどで見たり、常識があればある程度は想像がつくところですから。
 教科書は、あなたがそういう場面にあったらとりあえずこうしましょうといった、紛争に巻き込まれたときのマニュアルとして機能させることは意図していないですよね。結構役に立つことかもしれないけれど、そういうことが書かれていると、少し異質な感じがしますよね。   
 法曹人口が爆発的に増えて「石を投げれば弁護士に当たる」ような状況になれば、日常生活の中でも、あの人は弁護士だから困ったことがあればまずはあの人に聞いてみよう、となるのかもしれませんが、そういう状態には全然なっていません。困ったことがあればここに電話をといった情報があるといいのかもしれないですが、どういった手段でそういう情報を広めるのがいいのでしょうね。
宍戸先生 宍戸先生:法教育に関わっている有名な弁護士さんが、弁護士がおこなう法教育の一番いいところは、生きた弁護士はこんな人なんだ、ということを高校生が直に体験することにある、とおっしゃっていましたね。何かあった時に、「そうだ、弁護士さんに相談してみよう」と思ってもらえるだけでも、だいぶ違ってくるのではないか、と。
和田先生 和田先生:なるほど。そこに刑事法研究者が出て行っても、「そうだ、難しい解釈は研究者に聞いてみよう」なんて思う人はいないですよね。
宍戸先生 宍戸先生:和田先生の場合は両方できますけどね。
和田先生 和田先生:弁護士にとって、具体的な事件で具体的な被疑者、被告人と接することが非常に強い印象をもたらす、ということの裏返しで、一般市民からみたときに、具体的な弁護士を見たことがあるかないかは、相当大きな違いになるかもしれないですね。

<裁判員制度について>

宍戸先生 宍戸先生:もう一点お伺いしたいのは、裁判員制度のとらえ方です。高校生も将来、裁判員に選ばれる可能性があるわけですが、候補者の選任過程や業務については教科書で大きく取り上げられていますが、裁判員制度の説明や理念について何かお感じになることはありますか?
和田先生 和田先生:そもそも裁判員制度そのものが過激すぎますよね。従来、裁判は、お上が用意して見えないところで勝手にやってくれていたのが、国民、とりわけ具体的に選ばれた人にとっては、いきなり大きな負担として立ち現れてしまったわけです。ただ、強い反発がありながらも、一応なんとか運用しているということは、制度として受け入れられているということなのでしょう。ずいぶん思い切れたものだなとは思いましたが、制度を導入するときはいきなりやるしかないですしね。ただ、制度自体が社会との関係でかなり不自然な状態がまだ残っていると思われる中、若い高校生に対して、既に存在していることを当然の前提として制度を説明して、あなたも選ばれるかもしれないから制度を知っておきなさいという姿勢で情報を提供するのは、どちら向きの効果をもたらすのかは測りかねるところがあります。
 教科書では、制度が始まった経緯にも一応は触れてはいたと思いますが、具体的な手続がどうなっているかではなくて、一般的にどういう意味をもっているかということに加えて、日本の社会にこの制度があることの良い面、悪い面をもう少し多角的、批判的に検討できるような情報提供をした方がいいのではないかと感じます。高校生には難しいかもしれないし、裁判員になるのは嫌だという人が増えてしまうかもしれないけれど、そういう人が多いのに無理やりやるというのも制度の趣旨に反するような気もしますし、どう考えたらいいのか、ここは、裁判員制度の合憲性について研究されている宍戸先生のお考えをお伺いしたいです。
宍戸先生 宍戸先生:平成23年11月16日に最高裁判所が裁判員制度を合憲とする大法廷判決を出したときに、私が少し気になったのは、裁判員としての職務は、憲法18条注7が禁止する「意に反する苦役」ではないという文脈の中で、裁判員としての職務は選挙権の行使と同じという言い方がズバッとされている点です。
 本当にそうなのかな、と私は感じるのですが、これは高校の公民科の教育の現場には、ある意味で馴染む説明ですね。選挙とはこういうものだと、とりわけ18歳選挙権との関係で、投票のやり方についてかなり詳しく説明します。それと同じように、裁判員になったらこうですよということを教科書レベルで詳しく説明するのは、国民に対する構えとして共通するところがあって、それが最高裁判決にも共通するかな、という気がするのです。
 ただし、やはり、法教育あるいは公民教育として、本当にそこでとどまっていいのか。もう一歩先まで、今、和田先生がおっしゃったような、そもそもこの制度は何のためにあるのか、良い面、悪い面両方の面を比較してみたときに、良い面が多いのでこの制度を維持しようという思考がないと、真の公民教育にならないだろうし、制度自体が良くなっていかないですよね。
和田先生 和田先生:制度が存在することを前提に国民がそれに参加するだけではなくて、制度の維持や発展自体に国民が参加できていないと意味がないということですよね。そのためにはどうしたらいいのでしょう。興味がない、見たくないという人に無理やり学ばせる話でもない気がするので、内発的に考えたくなるような教育ができればいいのでしょうが。
宍戸先生 宍戸先生:まさにそれが公民科の教育本来の目的のはずなんですよね。無理やり強制するというより、公共の問題について自発的に関心をもたせられるような教育をしなければいけない。無理やり強制的に公共の問題に関わらせるというのは、前回も谷口功一先生から、ずいぶん共和主義的ではないかという話がありましたけれども、それに近いところがあって、その線引きは教育に関わる方々に常に意識しておいていただきたいところです。
和田先生 和田先生:それは高校に限った話でもありませんね。私の人生観の形成に大きく影響した出来事の一つに、高校の時の音楽祭での経験があります。宍戸先生も通っていた我が中・高では音楽祭が毎年ありました。その音楽祭で私は指揮者をやっていたのですね。クラス対抗で合唱するこのイベントに向けて、どのクラスも結構な期間、練習をするわけです。当然、その練習をしっかりできたクラスが最終的には完成度高く歌えることが期待されるわけですから、何とか充実した練習にしようと指揮者としては頑張るのですが、歌いたくない人は嫌なわけですよ、端的に。何でみんなで歌わなきゃいけないの? という気持ちをもっている人を、力ずくでどうという話ではないですよね。中1から高2まで、毎年ずっと、どうしたらいいのだろうと思っていたのですが、高校3年生の時に気づいたのです。自由意思をもった他人を自分の思いどおりにしようという発想がまず誤りで、むしろ、楽しい雰囲気にしてみんなの気分を乗せていけば自然にいい感じになるというのが、偶然、高校3年生の時のクラスの雰囲気からわかってきました。そしてその流れで準備を進めていったら、結果的に非常にいい結果が出たのです。その時に、言葉で指示するとか、むりやり罰則を設けたりするよりも、自ら本当にやりたくなったかのような雰囲気を外側からうまくつくることの方が、よっぽど全体をうまく動かすことができるのだと実感しました。おそらく、その経験が今の大学での授業スタイルに強く影響していると思います。
 大学での授業のしかたは先生によってかなり違うと思いますが、刑法の授業を受けて、細かい話まで全部、卒業後も覚えているという人はそんなにいないでしょうし、またそれ自体が目的でもない。最低限、すごく良い雰囲気で、刑法を専門に研究している先生が楽しそうに話をしていたなぁ、という印象がまずあることがベースとして重要だろうと思って、そういう乗れる雰囲気づくりというものを大切にしようと意識しています。私自身もその方が楽しいということもあるのですが。
 高校の授業でも、教科書の書き方でも、法律についてかっちりした内容を書くと、生徒は受けつけづらい雰囲気というのが出がちだと思うのです。事柄の性質上、楽しくとはなかなかいかないかもしれないけれども、なにか興味深いことだなと思わせて、自分から考えたくなるような題材を豊富に用意するということにもっと注力するといいのではないかなと思いますね。
 最近の学生は、真面目過ぎるくらいで、昔はもっと乗ってくれていたのが、ここ何年かはこちらが浮くようになってきてしまって、ジェネレーションギャップなのでしょうか……。
宍戸先生 宍戸先生:和田先生がスベっているだけなのではないですか?(笑)
和田先生 和田先生:私の感度が落ちてきているのかもしれないですけれど。40歳を過ぎてようやくわかってきたのは、世の中の人は物事を判断するときに、それが楽しいか楽しくないかとか、面白いか面白くないかといったことではそれほど判断していないのだな、ということですね。
宍戸先生 宍戸先生:役に立つかどうかがポイントなのでしょうか。
和田先生 和田先生:それは人によるでしょうが、役に立つかどうかわからないけれど、なんだか面白そうだからやってみようという発想は意外と少数派だというのは、不思議に感じます。

(事務局2階の吹き抜けから撮影)

 

後編につづく

 

 

注1:
「法務大臣が、次の各号のいずれかに該当し、その後に弁護士業務について法務省令で定める法人が実施する研修であつて法務大臣が指定するものの課程を修了したと認定した者は、前条の規定にかかわらず、弁護士となる資格を有する。
 一 司法修習生となる資格を得た後に……学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)による大学で法律学を研究する大学院の置かれているものの法律学を研究する学部、専攻科若しくは大学院における法律学の教授若しくは准教授の職に在つた期間が通算して五年以上になること。」(弁護士法5条より抜粋)
注2:
検察官から転身した弁護士のこと。
注3:
身体の拘束を受けている被疑者・被告人と面会すること。
注4:
非難が殺到し収拾がつかなくなる状況。
注5:
ジュリスト2010年7月15日号(No.1404)21~26頁。
注6:
法によって保護される社会生活上の利益。
注7:
第18条 「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」

 

<参考図書>

鉄道と刑法のはなし

鉄道と刑法のはなし 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 和田俊憲
 新書判
 248頁
 2013年11月
 780円+税
 NHK出版新書

ひとりで学ぶ刑法

ひとりで学ぶ刑法 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 安田拓人・島田聡一郎・和田俊憲
 A5判
 422頁
 2015年12月
 3,400円+税
 有斐閣

 

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