法学部教育から見る法教育(第2回)和田俊憲先生(刑事法)・後編

前編からの続き)

<モットーは太陽作戦>

宍戸先生 宍戸先生:もう少し大学の講義についてお伺いしましょう。北風ではなくて太陽作戦で授業されている感じがしますけれども。
和田先生 和田先生:そうですね。太陽ですね。
宍戸先生 宍戸先生:高校の先生や法教育に関わっている様々な方、あるいは高校生のみなさんに、法学部の授業やゼミはどんなものなのかをご紹介することも、この対談の一つのねらいですので、和田先生がどんな授業をされているのかを教えていただきたいです。
和田先生 和田先生:人によって全然違うでしょうから、まったくの一例ということですし、私の担当している科目によってもそれぞれ違いますので、それを前提にお話しします。
 慶應義塾大学の場合、法学部に入学するとすぐ、1年生の春学期から刑法総論という科目が始まって、そこから2年間、週一コマ刑法関係の授業が続きます。
宍戸先生 宍戸先生:刑法総論の授業ではどういうことを教えるのでしょうか。
和田先生 和田先生:刑法とは、どういう行為に犯罪が成立して、それに対してどういう刑罰を科すのかを定めている法です。刑法の授業は、たいてい「刑法総論」「刑法各論」という2科目を通じて、どういう行為にどういう条件が揃ったときに犯罪が成立するかという犯罪の成立要件について解説するのがメインの中身になっています。そんなことは刑法の条文を見ればわかるのではないかと思われるかもしれませんが、条文には、たとえば殺人罪の条文だと、刑法199条に「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」とだけ書いてあって、具体的にどういう場合に人を殺したといえるのかは、条文自体は語ってくれていません。そんなの、人を殺したときに人を殺したことになるんでしょう? というのはまったくもって常識的な感覚だと思いますが、世の中にはすごく微妙な事案が数多くあります。ナイフで刺し殺せば当然、人を「殺した」にあたりますが、たとえば、死にそうになっている人が自分のすぐ近くにいるときに、その人をそのままほったらかして死なせてしまった場合は「殺した」といえるのかとか、あるいはナイフで刺し殺そうと思って刺したけれども、その場では死ななくて、救急車で病院に運ばれる途中で交通事故に遭って死んでしまったときはどうなるかとか。そんな事件、本当にありうるの? と思われるでしょうが、微妙な判断が求められる事件は実際結構あります。そういう微妙な事件に対しても、殺人罪が成立するかしないか判断できないといけないわけなので、条文に書かれていないところも含めて、判例や学説の蓄積その他によって具体的な判断基準をより明確化していこうという営みがあります。その営みの中身を解説するために、どういった原理原則に基づいて具体的にどういう基準で犯罪の成立が判断されるのかを犯罪ごとにみていくということをやっています。
 先ほど、刑法は他の科目以上に体系性が強いという話がありましたように、抽象度の高い、より大きな話から示して、だんだん細かい話に進む傾向が強いものですから、刑法の授業のしょっぱなからいきなり非常にわかりづらい抽象的な話が始まるというのが全国的にみられる現象です。2年生ぐらいになれば、ある程度、感覚的にわかるところもあるかもしれませんが、高校から大学に入ってすぐ、いきなり○○主義がどうとかという話をされてもなかなかイメージしづらいですよね。イメージできなくても、その中に飛び込んでしまえる学生は、とにかくその世界に入ってあれこれもがいているうちにだんだん理解していきますが、初めの段階で心を閉ざしてしまうともう近づけないという不幸が毎年全国で生じているわけです。私はそれは良くないと昔から思っていて、なるべく常識的にわかる具体的な話から始めて、なるべく普通にありうることからだんだん例外度の高い話に移していこうと思っています。その順序が絶対に重要なはずだと考えて、本務校で刑法総論の授業を担当しだしたタイミングで、そのように講義の順序を組み替えた自分独自のプログラムに従って進めるという工夫をしています。
 法律はどの分野でもそうですが、1回やってもわからないけれども、薄く何度も繰り返しているうちに、だんだん理解するようになるという特徴があります。刑法総論も1年かけて全体を1回やるのではなくて、先ほどの順番で春学期でまず1回ざっと全体をみて、それに基づいて、もう少し細かい話だとか、例外的な話を秋学期にもう1回一巡させるという「二度塗り」をやっています。自分の感触としては学生もその方がわかりやすいだろうと思っていますし、教える方としても教えやすいです。
 1年生でそういう授業をやって、2年生は別の先生が各論を教えて、3・4年で演習形式で2年間かけてじっくり刑法について勉強します。ここでは刑法の勉強というよりは先ほどの楽しい雰囲気という方を中心に追求してしまっているところがあります。ベースは楽しくやり、ところどころメリハリをきかせて、ものすごく深い学問をやるということをやっています。具体的な活動としては、法律討論会への参加があります。大学生対象の法律討論会はいろいろな大会がありますが、関東学生法学連盟が開催している法律討論会に参加しています。討論会といっても対等のディベートではなくて、ある大学の主張する人1人と、それに対して質問で総攻撃するその他の大学の参加者大勢という構図です。大学の研究者が出題した架空の事件について、ある大学が立論して弁論すると、それに対して他の大学が質問し、またそれに対して的確に答えるというやりとりを、大学の研究者のほか、現役の裁判官、検察官、弁護士が審査委員となって採点します。
 討論会に備えて2か月くらいみっちり準備するので、ゼミとしてそれをやると準備段階でかなり深い、こちらの論文のネタになりそうなくらい深い議論ができて有意義ですね。
宍戸先生 宍戸先生:それ以外のときは、ゼミではどんなことをしているのですか?
和田先生 和田先生:毎年、過去の実績や私自身のやりたいことを含めて選択肢を示して、学生に選んでもらいます。1年間ずっと同じことをやるというわけでもなく、たとえば今年だと、春はロースクールで使っている事例問題を題材にして、ゼミ生に検察官役と弁護人役に分かれてもらって、自分が真にどう思うかとは完全に切り離して、その指定された検察官か弁護人の立場から合理的だと思われる主張で議論させるということやりました。これは、それに適した事例問題でないとなかなか盛り上がりづらいという限界はあるのですが、うまくはまるとエンドレスで議論できます。自分の考えとは違う立場から立論するのは、結構新鮮な経験のようで、好評ですね。
 あとは、昔やったものでは、世界の刑法典の条文を調べてみようというものがありますね。
宍戸先生 宍戸先生:まさしく太陽作戦ですね。
和田先生 和田先生:実は、そういうデータベースが存在しないのですよ。世界中の国の刑法典を集めたデータベースがないのはおかしいのではないかと。それを作ろうじゃないかと言って、目指したんです。そうしたら、まずもって我々が読める言語で条文が書かれている国が意外と限られるということと、そもそも何語であれインターネットを駆使してもどこにも条文がみつからない国がかなりあって、その年はたしか156か国で打ち止めになりました。その成果はCDに焼いて、みんなで共有しました。
 自分で何か論文を書くときに、その犯罪について他の国の条文をちょっと見てみるというのは、結構面白いです。英米独仏は本格的な比較法研究をする人がいますが、マイナーな国については何も知りませんから。
宍戸先生 宍戸先生:それは最高裁判所や法務省にもっていくとか、商事法務のホームページに載せるとか、活用した方がいいのではないですか。
和田先生 和田先生:そういう方法はありうると思いますね。調査結果として公にするのが望ましいのでしょうが、でも、もうちょっと独占したい気もします(笑)。ただ、少し古くなってきてしまったので、アップデートするいい方法があればいいなと思うのですが、これが結構大変なのですね。たびたび学生には「今年これやらない?」と勧めてみるのですけれども、なかなか「うん」と言ってくれる学年が現れなくて古くなってしまっています。インターネット等では条文を見つけられない国でも、その国の大使館に行って「刑法の条文を下さい」と言えばもらえると思うよ、都内大使館巡りって面白そうじゃない?って勧めるのですけどね。そういうノリではないのですよね、最近の学生は。
宍戸先生 宍戸先生:ずいぶん意欲的なゼミをやっていますね!
和田先生 和田先生:そんなふうに聞こえる部分だけ話しているのかもしれませんけどね。
宍戸先生 宍戸先生:一定の立場を決めて議論をするという、ただのディベートとは違う形で、しかし深く議論をして、それによって内容を理解する力を養うといった教育をする中で、和田先生が大学で教えるようになった頃と今とで、学生に違いがあると感じられることはありますか?
和田先生 和田先生:学生の違い以前に、変わったと思うのは、やはりロースクール制度の存在ですね。ロースクールで授業を担当しだしてから、その意識が自分の中でもより強まったということもあります。実務家志望の学生が将来、なんらかの立場になった時に、「でも自分はこう思うから」というのでは通らないでしょう。その練習を早めにしておきましょうという意味が一つあります。もう少し実践的なことを言えば、といってもあまり良い意味ではない「実践的」ですけれども、受験指導として、司法試験に受かりづらいタイプの学生の一つのパターンとして、この問題について、自分はこう考えるという気持ちが強すぎて、解答に時間がかかってしまうしバランスも悪くなるということがあります。こういったパターンを避けるには、やはり、自分の思いとは切り離して、今この場面でどう主張するのが合理的かを判断する力が非常に重要だと思うのです。
宍戸先生 宍戸先生:空気を読む力ですかね。
和田先生 和田先生:そうですね。空気を読むのに加えて、きちんとそれに合わせて行動するところまで含めてですね。ロースクール生には特に必要だと思いますが、学部でもやって悪いということではないですし、むしろ自分を相対化するのはよいことだと思います。そういう思いが自分の中で強まってきたことの方が大きくて、学生の側の変化についてはよくわからないですね。
宍戸先生 宍戸先生:私の個人的な印象ですが、データベースの普及もあると思いますが、人前で話す能力とか物事を調べる力は上がっている気がする反面、はっとさせられるような切込みは昔に比べると少なくなったかなという印象をもっているのですが、和田先生はいかがですか?
和田先生 和田先生:それは、全体の傾向というより個人差が相当大きいという印象です。私のゼミの経験から言うと、簡単に調べられることであれば、むしろ調べずに何もない状態で考えて、自分の常識的な感覚と、あまり勉強しないからこそ余計な知識に惑わされることなく素直な思考に基づいて、人間の本性に従った非常に良い発言をする学生はコンスタントにいる印象です。そういう学生が中途半端に知識を身につけてしまうと、かえってダメになる。
宍戸先生 宍戸先生:なるほど。素材は良いのに教育がダメにするという(笑)。
和田先生 和田先生:基本的に、教育の極意は余計なことをしないということではないでしょうか。本人たちがもっているものを自然な形で伸ばすことが、本来もっとも望ましいことだと思います。その意味でも、中途半端な勉強、特にロースクールとの関係でいえば、予備校で中途半端な勉強をしないでほしい、やるならもう予備校だけでみっちりやって、やらないのだったらまっさらな状態で来てほしいということはあります。
宍戸先生 宍戸先生:それは私もよく感じます。
 裏返しになりますけれども、法学部に入って勉強したいと考えている高校生に、勉強だけでなくこれはやってきてほしいという要望はありますか?
和田先生 和田先生:自分でやるというのとは少し違うかもしれませんが、断然、日本語力ですね。言葉が通じないのは、もう、困るなどというものではありません。それ以上どうしようもない、どうにかする手段が奪われてしまっている状態というか。言葉の力を身につけておいてほしいですね。
宍戸先生 宍戸先生:それは文章を読む力ということですか? それとも、オーラルなディスカッションも含めてということですか?
和田先生 和田先生:まずは最低限、文章を読む力ですね。勝手な想像ですが、今の子は、非常に表面的にスピーディにしゃっしゃっという感じで文章に触れているのではないかと思うのです。じっくり、正しく深く読むということは、おそらくある程度経験がないと、それがどういうことなのかすらわからない。それができないと、ある程度の複雑性をもったロジックを伝えることができなくなってしまいます。
 すごく単純な、断片的な話だけで済む世界であればそれでもいいかもしれませんが、法学の世界はそうではないので、言語的な体内リズムのようなものを早いうちから身につけてほしい。実は、高校では遅くて、初等教育の問題のような気もします。あるいは教育というより普段の生活でしょうか。
 ロースクールの試験で、難しい解釈論だけでなく、きちんと問題文を読んで事実関係を整理できるかどうかという基本的なところをみようということで、関係者の行動と被害者の死亡時期などの時間的関係が、きちんと読まないと整理できない問題を出してみたことがあります。そうしたら、問題文を正確に読めていない答案がものすごく多くて、愕然としました。下手に解釈論的に難しい、しかし、事実関係がある程度シンプルな問題を出してしまうと、それがみえなくなってしまう。
宍戸先生 宍戸先生:知っていることを書けば解けてしまうわけですよね。
和田先生 和田先生:もう刑法の解釈なんて触れなくていいから、どういう事実関係なのか整理して説明してくださいという要請に応えられるだけで、かなり上位に行くことができてしまうのではないかという印象です。
宍戸先生 宍戸先生:なるほど。これは高校の先生方や高校生のみなさんへの貴重なメッセージになるかもしれません。

<「法の翼プロジェクト」から思うこと>

宍戸先生 宍戸先生:法教育の新たな取組みとして、実は和田先生と私は今、「法の翼プロジェクト」をやっていますが、これについては昨年9月の「法と教育学会」で和田先生に発表していただいたところです。和田先生の方から簡単にご説明をいただいた上で、そこでのご経験から法教育にこうあってほしいというお考えを聞かせてください。
和田先生 和田先生:「法の翼プロジェクト」は、法教育の一環として新しいタイプの試験を始めてみようというプロジェクトです。いわゆる検定試験とは違った形でやろうというところが一番大きな特徴になっています。高校生に試験を受けてもらって、受けた時点でどういう種類の法的思考力がどれくらいあるのかを測ることに主眼を置くのではなくて、この試験を受けながら問題について考えて、かつ、終わってから解説を読み、あるいは場合によっては解説講義を聞くという、そのプロセス全体を通して、法的な考え方とはどういうものなのかを実感してもらう。そこに重点を置くタイプの試験です。従来型の、何級合格とかスコアだけを求めるわけではない、少し変わったタイプの試験を新しく作ろうというプロジェクトですね。
 この話にお誘いいただいたときに、最初に面白そうだと思ったポイントは、こういうものがあれば自分の思っていることが高校生に伝えられるということではないのです。その逆で、伝えるべき法的思考力の何たるかが自分はわかっていないので、このプロジェクトに参加すれば法的思考力の本質がきっとわかるに違いないという思いがありました。
宍戸先生 宍戸先生:正確には、和田先生の場合には普段やっていて自覚化できていないことが、自覚化できるということですね。
和田先生 和田先生:それは良く言い過ぎです。自覚がないだけでなくて、自覚しようとしても、自分では言語化できないし、私がやっていることは一体何なのだろうという疑問に少し光が見えるのではないかと思って参加しました。実際に参加してみて、実はいまだによくわからないところは残っていますが、それでも、普段、他の法分野の方と議論する機会はあまり多くないですし、刑事法についても高校生を念頭においてこういう形で問題を作るというのは、もちろんこれまでやったことがありませんから、刑事法についてのある種の相対化ができて、非常に良い時間を過ごさせてもらっています。
 このプロジェクトは2018年12月に正式な試行試験が行われるということで、そこに向けて今は準備の準備のようなことをやっています。
 実際にいくつかサンプル問題を作って、高校生や大学生に試しに受けてもらって、問題として適しているかどうか、果たしてどういう力が問われていることになっているのかとか、あるいはこれに基づいて実際に解説授業をするとどういう感じになるのかということを、試している段階です。
 このプロジェクトの本来的な目的を越えて、私が今感じているのは、問題の作り方が画期的だということです。これは通常の試験のように点数をしっかり出すタイプの試験ではないので、作題の方針として、問題に紛れがあるかどうかはあまり気にしないようにするとか、あるいは、この選択肢が最高点、この選択肢はまあ誤りではないけれども完全正解でもないから部分点というように、むしろ曖昧とも取れる作りをすることにしたところが、非常に画期的だと感じているのです。それはなぜかというと、言葉を選ぶのがなかなか難しいのですが、男性対女性という話に関係すると思うのです。
宍戸先生 宍戸先生:なるほど。
和田先生 和田先生:今の日本社会が大きな問題として抱えていることを解決に方向付けるには、言葉を選ぶのが難しいのですが、女性的な脳の使い方をする人、いわゆる「女性脳」の社会の中での位置づけを決定的に変える必要があると思っています。単純なスローガンとしては「女性の社会進出」といったことが言われるわけですが、それがまったくもってうまくいかないに違いないと思うのは、その社会進出を男性脳基準で判断しているからです。基準自体を女性の基準を入れたものにしないと、うまくいくはずがない。そしてある人に言わせれば、いろいろな試験の基準が男性基準で作られていることが諸悪の根源である、と。
 世の中にはいろいろな試験があるわけですが、明治以来、試験文化というか、いい点を取ると良い評価が与えられ、その蓄積が社会的な地位を基礎づけている社会のあり方の中で、個々の試験がすべて男性基準で評価されるような作りになっていると、女性でもそれに合わせられる人しかそれに乗れないわけですよね。女性脳の社会進出が自然な形で進むためには、最終的な社会的評価を基礎づけている個々の判断基準をそれに合わせた形にしないと公正な判断にはならないはずですが、そういうレベルでの議論はおそらくあまりなされていないと思います。
宍戸先生 宍戸先生:「男性並みに」女性が働く、みたいな話ですね。
和田先生 和田先生:私はカナダに留学しましたが、カナダは新しくできた内閣も完全に男女同数ですし、普通に社会の中で生活していて見える範囲の男女バランスがとても上手くとれています。男性基準だとうまくいかないのを無理やり、たとえばアファーマティブアクション注1 でどうにかしているとかではなくて、自然にそうなっているように見えるのです。判断する基準自体がきちんといい形になっているからだろうという印象をもちました。
 刑法との関係でいうと、カナダの性犯罪の規定というのは、ものすごく過激なものになっています。他人と性的行為をする時は相手方に事前に明示的にその行為についての同意をきちんと段階ごとにとらないといけない。その手続に違反するだけで犯罪になるという、過失強制わいせつ罪があるような過激な処罰体制になっています。
 昔はそうではなかったのを30年くらい前に一気に大改正してそういう体制にしたのです。日本でもようやく強姦罪規定が改正されましたが、カナダ的な改正は絶対にありえないと断言できるくらいの劇的な変化を、カナダでは容易に成し遂げているようにみえます。なぜそんなことが可能なのか、現地の女性教授に話を聞くと、その場では「あ、なるほど、それならありうるな」と納得するんです。でも、不思議なのですが、日本に帰ってきて、あるいは日本語の感覚に戻って、それを言語化しようとするとできないのですね。形式論理的な説得力ではなくて、その場でだけ共有されるコミュニケーションの雰囲気に基づいた説得力というか。
宍戸先生 宍戸先生:なるほどね。
和田先生 和田先生:そういうレベルの何かがあると思って、それは小手先で法制度を改正してどうという次元の問題ではまったくなく、もっと心理の奥から積み上げていく何かであると思うのです。その一環としてと言うと変かもしれませんが、法の翼プロジェクトのような試験を作るときに、今までの男性型の「公正な」試験のような、紛れがなくてかっちり答えが出るような、しかしそれを追求するあまり問題文に不自然さが出て、それを見抜く力の有無も結果を左右するようなものではなくて、ざっくりでも本質をとらえると答えになんとなく辿りつけるような、でも、答えは唯一ではないような、そういうグラデーションのある試験にすることは、非常に良いことだなと思うのです。ただ、プロジェクト委員の中に今のところ女性が一人もいない。そこがやはり、病理の深さを表していると思うのですよね。
宍戸先生 宍戸先生:「法の翼プロジェクト」と法教育との関係で和田先生がおっしゃりたいことは、法は変わりうるもので、しかもそれが単に一方向的にというのではなくて、多様な可能性があって、その中でどういう社会のあり方を目指して、どうあるべきかを考える。そういう力を育むことを法教育は目指していくべきではないか、ということでしょうか。
和田先生 和田先生:そうですね。法教育が法についての教育だとすれば、日本ではそもそも法のあり方が男性的になってしまっていることが前提なので、そこ自体が変わらないと法教育以前にどうしようもないと思うのですよね。ただ、個人的に絶望的に感じるのは、そういう変化を生じさせることに私は何ら役立てないということです。
宍戸先生 宍戸先生:男子校出身だから?
和田先生 和田先生:それもあるかもしれませんが、最初にお話しした、刑法に美しさを感じるという話に通じるかもしれません。それではいけないのでしょうけれど、私はもうそれでしか動けないので。どうしたらいいのでしょうね。
宍戸先生 宍戸先生:ただ、我々研究者は自分たちが法を変えていく部分もありますけれども、やはり対象とする法現象に規定されている部分もあって、相互作用が大きいと思いますね。法教育や法学研究が変わっていくことによって、法のあり方自体が変わっていく部分もあれば、その法のあり方が少しずつ変わっていくことによって、我々の研究のあり方もその刺激を受けて変わっていくこともあります。「鶏が先か、卵が先か」ですけれども、こういうところから手を付けていかないと。
和田先生 和田先生:少しずつなんでしょうね。過激に急に変わることはきっとないのでしょう。意識の問題なのでしょうけれど、あいまいなものをそのまま受け入れるという力、それでもお互いにコミュニケーションがとれて結論が導けるという力。
宍戸先生 宍戸先生:単に我慢するという話ではなくて、言葉の正しい意味での寛容な社会、寛容な法制度ですよね。まさにカナダの法哲学、政治哲学から、寛容の原理が社会や法の構成原理として出てくるのは、故なしではないですね。
和田先生 和田先生:だからカナダは「異分子」として行くと非常に居心地の良い社会なのですよね。
宍戸先生 宍戸先生:逆に日本はきっと「異分子」には非常に住みにくい社会ですよね。それは日本の法のあり方とわかちがたく結びついているわけです。
和田先生 和田先生:あと一つ、法教育で必要だと思うテーマは、まったく別の話ですが、死刑制度です。死刑についてはもう少し本気で高校生にも考えてもらいたいと思いますね。究極の隠された制度というか、見えないところでさらに見えない状態にしてしまう制度になっていますので。晒せばいいという話ではもちろんありませんが、それこそお上が決めて、見えないところで勝手にやっているというのが、とても強い形で具体的に表れている制度だと思うのです。私自身は死刑を廃止すべきだと熱烈に考えているわけでは全然ありませんし、市民的な感覚としては、そういう仕組みがないとまずいのでないかという感覚が素朴にあります。世界的な常識としては法律の専門家が死刑制度を支持するというのはありえなくなってきていますが、これも文化だという理屈がとおるかどうかはともかく、少なくとも議論すること自体が隠されてしまうのは不健全だと思います。
宍戸先生 宍戸先生:前回の谷口さんとの対談でも似たような話が出たのですが、ある意味でセンシティブな、タッチーな法制度の問題を公教育の場でどうやって議論として扱うべきでしょうか。他にも家族の問題とか性の問題とかいろいろありますが、たとえばこういうやり方だったら上手くいくのではないかといった、現場の先生方への和田先生からのアドバイスはありますか?
 主権者教育だと、最近は各党の政策綱領を抽象化した形で比較して議論することそれ自体は、政治的中立性に反しないという大枠の中であれば、できるようになってきました。本来、国民の間で多数と少数がはっきりしているような問題、しかも必ずしも十分な認識とか理解があるように思えない前提で、情報自体が閉ざされている中でのタッチーな争点をどういうやり方でやるのか。それを考えることこそ、真の法教育だと思っているのですが。
和田先生 和田先生:日本人がディベートをすると、人格攻撃のように感じてしまってうまくいかないことがありますよね。それへの対応と似た形にするのは一つの方法かもしれないと思います。タッチーなことについて、本当の自分の意見として戦わせると扱いづらいところがあるかもしれませんが、先ほどお話しした、ゼミで立場を決めて議論するのと同じような形で、あなたが本当にどう思っているかは聞きませんが、こういう立場からならどう考えられるか、というように、そこを切り離すのは一つの方法だと思います。決められた立場から主張しなければならない状況に追い込まれていろいろ調べてみると、自分の考えとは正反対の立場だと思っていたけれど、意外と納得できるところもあるなとか、個人の中でそういった消化がおこなわれるということもあるかもしれないと思います。刑法の研究者をやっていると、扱っているものすべてが犯罪ですから、犯罪や刑罰について語ることには何の抵抗もなくなって、しかも議論する相手はたいてい同業者か、そういうことに興味をもっている学生ですから、高校教育の現場が直面するタッチーで微妙な感覚というものが実感をもってはわからない状態ですけれども。ただ、過剰に気をつけ過ぎている可能性はないですか?
宍戸先生 宍戸先生:いや、私はあると思います。
和田先生 和田先生:もう高校生なのだし、思い切ってやってしまえばいいのに、というのは無責任でしょうか。小学生や中学生だと違ってくるかもしれませんが……。性の問題だと、まさに当事者という問題があると思いますけれども、死刑はそれとは違う気もします。教育の現場で「死」を扱うこと自体が容易でないのもわかりますが、「隠す」という発想は死刑問題の構造そのものですよね。遠ざけて守るのではなくて、触れても動じない強さを育むようにするのがあるべき教育の方向だと思います。
 いろいろな考え方の人がいることに気づいたり、自分以外の圧倒的多数が違う考えをもっているところでもきちんと議論する経験自体にも意味があると思いますし、そういう力がついている人が増えていかないと社会全体の議論が成熟しない。自分が少数派になっても一定の立場から主張すべきことを主張して耐える力は、場数をたくさん踏んでいけばついてくるし、意外とそれほど気にすることもないかもしれない。
宍戸先生 宍戸先生:私もそういう気がします。でも、そういう経験は少ないかもしれないですね。法教育や主権者教育で経験を踏むような教育の機会がやはり必要ではないかという気がします。是非やってほしいですね。
 ここまで、長く、かなり深い、和田先生の社会に対する見方をお伺いして、私にとっては大変興味深かったのですが、最後に一言、感想があればお願いします。
和田先生 和田先生:どういう教育が望ましいかとか、客体としての教育について語っているかのように見えて、そういう微妙な話をすると実は自分自身が曝け出されてしまうということがよくわかりました。また宍戸先生にやられたなと思っております。
宍戸先生 宍戸先生:それでは、今日はうまく和田先生をやった! ということで(笑)。
今回は刑事法がご専門の和田俊憲先生に「法学部教育から見る法教育」ということでかなり深いお話をいろいろといただきました。本日は長時間どうもありがとうございました。
和田先生 和田先生:こちらこそありがとうございました。

 

 

注1:
差別を積極的に是正する措置。たとえば、管理職の半数は女性でなければならないと法令で定めるなど。

 

<参考図書>

鉄道と刑法のはなし

鉄道と刑法のはなし 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 和田俊憲
 新書判
 248頁
 2013年11月
 780円+税
 NHK出版新書

ひとりで学ぶ刑法

ひとりで学ぶ刑法 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 安田拓人・島田聡一郎・和田俊憲
 A5判
 422頁
 2015年12月
 3,400円+税
 有斐閣

 

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