教科書を見るシリーズ 小学校編「道徳」(2)その2

教科書を見るシリーズ 小学校編「道徳」(2)その1からの続きです。

星野先生:さて、いよいよ「社会とつながって」に分類されているものに入っていきましょうか。量が多いので、いくつかピックアップしていきたいと思います。
 「空きかんのゆくえ」(p.80)は、主人公の「ぼく」が、道路に空き缶が転がっている様子が気になり、缶ジュースを販売している店に一日の売上本数を聞いたり、町の空き缶拾いをしたりしたことを通じて、なぜ空き缶を道路や公園に捨てるのかといったことや山や海でも考え直さなければならないことが、いくつも浮かんできたという題材です。道路に捨てられている空き缶をなくすために、どのようなきまりがあると良いか、ということも考えることができる題材で、法教育授業の模擬国会を彷彿とさせます。

塩川先生:そうですね。小学校の学習指導要領では、中学校の学習指導要領が指摘するような「法やきまりの……のよりよい在り方について考え」という点は指摘されていませんから、この題材においては、投げ捨てをなくすため「一人一人がどんな気持ちを持てばよいでしょうか」という問いを通じて、投げ捨てはいけないという何となく共有されている「きまり」の持つ意義を考えるという点に重きが置かれると思いますが、小学校でも「じゃあ、どのようなきまりがあるとよいか」と考える習慣をつけることで、次の段階につながると思います。きまりというと窮屈に感じられるのであれば、どのような「工夫」でもいいかもしれません。
 また、既に、東京都内だけでも新宿区や品川区、中野区では空き缶の投げ捨てを禁止する条例が制定されていますので、児童が「きまり」を発表した後に、実際に空き缶の投げ捨てを禁止する条例があることを示して、条例の意義を考えるという展開も面白いかもしれません。

星野先生:小学生に条例ですか。

塩川先生:もちろん、条文をそのまま読ませるのは難しいので、わかりやすくまとめておく必要はありますよ。そこらへんは、弁護士が授業協力するときに期待される役割かもしれませんね。

星野先生:さらっと弁護士全般が大変なことを引き受けてしまった感じがしなくもありませんが(笑)題材の中では、主人公の「ぼく」は空き缶が道路に捨てられているのが「気になってきた」としか、書かれていませんが、この点も掘り下げられそうな点ですね。

塩川先生:まさにその部分が、空き缶の投げ捨てを規制する法やきまりの意義を考えさせるポイントになります。

星野先生:続いて、「田中正造」(p.106)についてもみていきたいと思います。「差別やへんけんのない公正・公平な態度で」という学習目標が掲げられていますね。田中正造といえば、足尾銅山の鉱毒問題と闘い続けた人です。この教材にもとりあげられている天皇への直訴エピソードなど、熱い人だという印象はありますが、「差別やへんけんのない公正・公平な態度で」という目標との関係では、どう読んだらいいのでしょうか?

塩川先生:私も差別や偏見というキーワードからは少し珍しい素材のように感じました。ただ、この教材の中で紹介されている「決して人に対していばったり、ましてや、いじめたりしてはいけない。」という母親の教えを支えに生涯を送ったのですよね。そして、前提として富国強兵を第一に考える当時の社会情勢でありながら、彼は、政府に無視されても無視されても、住民の苦しみを訴え続けた。ここに住んでいる人以外にとって問題ではなく、経済的にみれば、無視してしまった方がむしろ居心地のよい状況だったとしても、一部の人にとって本当に重大な問題が起きているとき、それを無視してはいけないだろうというのが、彼の姿勢なわけです。差別とは、積極的加害意思がなくても、問題状況を無視している場合も含むと考えたら、この素材の意味もわかってくるような気がしませんか。

星野先生:なるほど。最後に「正造の生き方の、どんなところが人々の心を動かしたのでしょう」という問いがありますが、確かに、無視されている足尾の住民の苦しみを国会や天皇に訴え続けてくれた姿には胸を打たれますね。経済合理性だけで物事を考えるのではなく、たとえ少数者の痛みでも無視しないという姿勢は、重要な人権感覚ですね。

塩川先生:そうだと思います。「だれかに、公平な態度で接することができたことはありますか」という問いもあって、なかなか抽象性の高い問いではありますが、「公平」な態度というのは、どういうことなのかを考えさせたいという趣旨でしょう。正造ほどの闘いをしている人は多くなくても、「なんかいいことしたな」っていうのは、小さいうちからありますよね。それは、なんで「いいこと」だったのか、改めてふりかえってみると、何が公平であり、何が人権として尊重されるべきなのかという感覚が育っていくのではないかと思います。

星野先生:小学生より何十年先輩だろうと、私も、田中正造レベルの努力といわれると、なかなか厳しいなあと思ってしまうのが正直なところですよ…

塩川先生:ええ、私もです(苦笑)。でも、だれか一人「田中正造」になれば社会の問題が解決するほど、世の中は簡単ではありません。だからこそ、一人一人の行動に引き直して考えるのが大事なのだと思います。

星野先生:
「白神山地」(p.29)はどうでしょうか? この題材は、白神山地という世界に類を見ないブナ林の原生林が、地元の人々を中心に守られ、ついには、世界遺産に登録され、「世界の白神」と呼ばれるまでになったというケースを踏まえて、目先のことに流されず、自分の地域の良さを考えることがひいては地球のためにも良いはず、と結ばれています。

塩川先生:「白神山地」が守られたというケースを通じて、郷土を愛するということは具体的にどういうことなのか、ということを青秋林道の建設中止運動や、世界遺産に登録された後に環境破壊が進んでいることを通じて考えさせる題材だと思います。抽象的に郷土が大事、自然を守りましょう、というのではなく、具体的に何があったのかを通じて、児童にもわかりやすく訴えかけているのですね。

星野先生:他方で、多様な価値観を持つという点では、道路の建設を巡って、地元の人々は反対したけれども、道路を通すことで、地域が活性化し、郷土の発展を図ることもできたのではないかという意見も考えられそうですね。

塩川先生:まあ、そういう意見もありえはするでしょうね。ただ、今日では、白神山地が世界に類を見ない素晴らしい自然遺産であることに争いはなく、それを破壊するという意見は、とりにくいかなとは思いますが。世界遺産になったというハッピーなお話のようですが、掘り下げて、細かく見ていくと一筋縄ではいかない問題である側面もでてきますね。

星野先生:確かに、教材の中でも世界遺産に選ばれたことで、観光客が増加して、環境破壊が進んだという弊害が触れられています。世界遺産に選ばれたことのプラス・マイナスはこの題材の中では意識して議論されるべき問題だといえますね。最後に、国際理解、国際親善の題材として取り上げられている「エンザロ村のかまど」(p.70)に触れたいと思います。国際支援というと、素朴な発想としては、水や食料などの物資を送るといったイメージをもってしまいがちですが、この題材では、ケニアで国際協力機構に参加していた岸田袈裟さんが、現地の人たちが自らの手で安全な水をお金をかけずに入手できるように、手作りできるかまどを考え、そのかまどが普及していったというお話です。この題材を通じて、物資を送ることだけが援助ではないという気づきを持たせることができますね。

塩川先生:そうですね。最後の問いで「岸田さんは、どんな思いからエンザロ・ジコ〔注:かまどの呼び名〕を考え出したのでしょうか」とありますが、安全な飲み水が足りていなかったこと、そのために命を落とす赤ちゃんがたくさんいたこと、その時の現地の調理環境だと水を逐一加熱して殺菌することが難しかったことなどが前提としてあります。このニーズを把握するために、岸田さんは、「村の人たちが必要としていて、しかも自分たちで作れるもの」という発想をもって、何度も村人たちと話し合ったといいます。だからこそ、このかまどをつくるという支援が意味を持ったのですね。支援先の緊急性によっては、むしろ、物資を送ることが喫緊の課題だということもあるでしょう。前提をきちんと把握したうえで行うということが、人道的支援のうえでも、大切だといえるでしょう。

星野先生:前提となる情報を精査するというのは、法教育の基本の考え方でもありますね。

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次回は、「光村図書」の教科書を見ていただく予定です。

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