「法学教育」をひらく(第3回) 仲正昌樹先生 現状編1

〈仲正先生のご紹介〉

大村:「この対談シリーズの趣旨は、法学入門を法学教育と法教育の架橋の役割を果たすものとしてとらえ、法学入門を通じて両者の境界領域について考えてみようというものです。法学者の書く「法学入門」は法学の側から見たものがほとんどで、法学者の暗黙の了解事項が前提になっている面があり、入門の人向けの手引き、法学教育への架橋という役割が果たしにくいところがあるのではないかと感じています。仲正先生の御著書『改訂版〈学問〉の取扱説明書』(作品社,2011年)では、他の学問と法学が対比されているので、初めて法学に対峙する人にイメージが伝わりやすいのではないかと思いました。

 仲正先生のご紹介を簡単にさせていただくと、現代思想家として多数の御著書がおありです。法に関わるものも多く、御編著の『法における主体の問題』(御茶の水書房,2013年)には、憲法の先生による法教育についての論文が収められていますし、御自身も法教育に関連した問題に触れてもおられます。最新の『精神論ぬきの保守主義』(新潮社,2014年)では、制度に着目されており、幅広い領域に造詣をおもちでいらっしゃいます。」

仲正:「法学に関心をもったきっかけは2つあります。現代思想の中では、デリダの『法の力』や、1990年代にアーレントが取り上げられた頃から、法学者とは違った視点から法が扱われるようになりました。私もその頃から面白そうと思い、関心をもちました。そしてたまたま、1990年代後半に金沢大学の教養部が解体され、そこに所属していた先生たちがいくつかの学部に転属になるという組織改編が行われていた時期、法学部に転属になった先生の後任として採用され、ドイツ語プラス法学部生向けの教養的科目を担当することになりました。それをきっかけとして、デリダやアーレントなど現代思想の中の法の問題を本格的に勉強し始めました。
 法学部の中に入ってみると、法学部の文化は今まで自分が院生として経験してきた、人文系のアカデミズムの文化とは違うと感じました。最初は、気にせずにやっていこうと思っていましたが、これも偶然に、当時金沢大学附属病院が関係していた医療訴訟に関わることになったのです。インフォームド・コンセント関係の事案ですが、その話を実定法の先生にしてもこれといった反応がありませんでした。そこで、自分で医事法のことを調べ始め、関連する実定法を勉強しました。」

〈法学の文化について〉

仲正:「自分で実定法の勉強をしながら改めて法学を見ていくうちに、次第に法学と人文系の諸分野との違いが自分なりに整理でき、法学の文化というものに見当がつき始めました。」

大村:「いわば法学部に異文化ウォッチャーとして来られたことになります。その観察結果を言葉にするとどうなるか、という視点が、高校生が法学部に来て感じる違和感を解消するのに有益ではないかと思います。そのような立ち位置で感じられた法学の特色はどのようなものでしたか?」

仲正:「特に、法学の教科書には具体的なケースが少ない、ということがあります。法学をほとんど知らない一般の人は、法学者は判例のポイントを具体的なケースに即して紹介しているのではないかと思っているかもしれませんが、実際はそうではありません。素人には、刑事ドラマのような感じで具体的なプロセスを追った記述だとわかりやすいと思うのですが、そういう書き方の教科書はあまりないような気がします。法学入門の教科書は、最初に、法はどういう性質をもった体系か抽象的に規定したうえで、どのような分野があり、どのような概念や解釈方法論を使うのか簡単に紹介するのがオーソドックスのように思います。体系性が大変重要とされているわけです。自然科学は体系性が重視されるのは当然ですが――普通の人にとって物理学や化学は、「身近な学問」とはいえないことが、ある意味よく知られているので、まあ仕方がない、という感じで受けとめられることが多いのではないでしょうか。それに対して、法学は、身近な問題を扱うということを一般の人や学生向けに自己アピールすることが多いのに、理論的に体系化された学問であることを入門書などで、のっけから強く打ち出していきます。普通の人に、その両極面のギャップをどう説明するのだろうと思いました。哲学などの他の文系の学問は、一般向けに自己紹介する際には、割り切って、どちらかに寄ると思います。私自身、法学部に勤め始めた当初、法学という学問の統一的イメージをなかなかもつことができませんでした。」

大村:「今のお話は法学入門についても個別の実定法についても、当たるところがあると思います。第1回対談でお子様ランチというたとえを使いましたが、仲正先生のおっしゃった法学入門は、いわばお子様ランチのタイプです。入門がお子様ランチでいいのかという議論がありますが、いろいろなものがあるのをワンプレートに収めて概観するタイプ。各科目に行くと、ある部分が拡大されてより細密な構造が示される。そこで教えられるのは、日常で遭遇する生の事件からは遠いものであることに、落差を感じるということだと思います。」

〈法学教育のイメージ〉

大村:「先生は『法学者は、自分の専門を~法という』と書いておられますが、外国語教師の場合と似ていますね。外国語教師は、~語学を教えているとは言わないので。外国語の教え方は、言葉だから日常的に使えないとおかしいでしょうというタイプと、まずは文法が大事というタイプの2通りがある、というメタファーを用いるとすると、語学は文法が大事というイメージと同じと考えていいでしょうか?」

仲正:「私はドイツ語も教えていますが、語学教師は文法中心の授業をやる場合も、出来るだけ早い段階で、典型的な例文を示し、それを覚えさせたうえで、文法を説明しようとします。そうしないと、文法の説明がやたらに複雑になってしまうからです。法学における「文法」重視は、前置詞の格変化の意味や、関係代名詞、接続法等の知識を一応頭に入れておかないと会話の練習ができない、語学教育のようなものなんじゃないかという気がします。」
大村:「お話には法学には実際の用例との関係でどうなのかということが示されていないということと、法学は全体を見ないとわからないという前提で教えられているということ、この2つのことが含まれていると思います。どちらが気になりますか?」

仲正:「私の知っている範囲の話ですが、実務家出身の先生でも法学部の実定法科目を担当される場合は、自分自身が学部時代に教わったように、学部生はまず体系的なことを学ぶべきであって、実例は法科大学院に進学して、実務家になるための勉強を始めてからでいいし、本当に実務を学ぶのは、実務家になってからだ、という考えの人が多いような感じがします。法社会学以外では、実例が授業の中身に本格的に組み込まれることは少ないと思います。身近な実例というと、普通の人は、トラブルを弁護士に相談していくところから始まると考えます。しかし、法学の授業では、実例というのは、判例を読むことです。それも、「判例百選」とか「判例時報』とかにのっている注釈に従って、大事なところだけ読むというのがほとんど と思います。 準備書面を本格的に読むような授業はほとんどないと思います。準備書面も弁護士さんが書いた文章なので、事件をそのまま再現しているわけではありませんが、準備書面のやりとりを追っていくと、双方のやりとりから、事件の争点がどういう風に形成できるか、ある程度イメージできると思うのですが、法学の授業では、こういう問題はこう解くのが法律の標準的な考え方だという例として、判例が扱われているにすぎないような気がします。言い換えれば、法体系の理論的整合性を示す素材として判例が使われているのではないか。初心者向けの教科書の書き方においてさえ自らの体系性をアピールする傾向が、文系の他分野よりはるかに強いと感じます。
 理論相互の整合性を、授業に反映させることに関しても、こだわりが強い。行政法と民法の関係について、行政訴訟を理解するには不法行為法を理解していないと理論的にわからないはずなのに、カリキュラム上受講する順番が逆になっているので困るという趣旨の会話を、同僚たちがしているのを何度か聞いた覚えがあります。民法の中で、不法行為の部分は最後の方に習うことになっているのに、その前に行政法の授業がスタートしてしまうわけです。ただ、実際にそのつじつまを合わせるためのカリキュラム改革が行われたわけではないですし、仮にその整合性が取れるように改革しても、学生が行政訴訟の授業が始まるまでに民法の単位をちゃんと取得してくれないとあまり意味はないわけですが。ともかく、法学者は体系の完成体みたいなものをイメージして、それにこだわっている、少なくともこだわっているポーズを見せたがる、と思います。それは、学問自体の性質というより、カリキュラムや法学部の体制と関係があるのかもしれません。」

〈法学入門教育について〉

大村:「法学教育は事件や問題から入る要素が乏しいということですね。他の学問ならこんな入り方をすると、対比していただくことはできますか?」

仲正:「最近のわかりやすい例で言うと、サンデル教授の白熱教室のようなやり方が考えられます。倫理学や政治哲学なら、白熱教室とほぼ同じテーマで学生を討論させることができるかと思います。暴走しているトロッコに5人の人が乗っている。レールを切り替えたら、5人は助かるが、切り替えた先のレールで作業している人が確実に死ぬ。どうすべきか。そのバリエーションとして、レールを切り替えるのではなく、1人の男を自分の手で突き落とさなければならない状況であったとする。その場合 は判断が異なってくるのか、というのがあります。挙手させると、学生の考え方にバラツキがあることがわかります。レールの切り替えだけなら、1人のために5人を犠牲にするのも仕方ないと判断する人でも、突き落とすとなると、判断が異なることがあります。そこで、自分がどういう理由でそう判断したのか説明するよう求めます。トロッコの話が非現実的なので考えにくいということであれば、実際にあった話を持ってきてもいい。サンデルの教科書『これからの「正義」の話をしよう』では、法律的な問題も含めてかなり多くの実例が紹介され、それを分析する形での問いかけがなされています。サンデルはそうした設問によって、各人の立場を、功利主義、自由主義、共同体主義などにグループ分けしたうえで、討論させます。無論、実際にやってみると、サンデルが想定するような方向ではきれいに分かれないこともしばしばありますが、そうなったらそうなったで、別の区分を考えることが、教師と学生の双方にとって勉強になります。この手のやり取りを、授業に取り入れていた先生は、サンデル・ブームの前からかなりいたようです。哲学とか思想史だと、教科書の中のどこからどこまでをやらねばならない、という暗黙のルールのようなものはほとんどないので、やろうと思ったら部分的に取り込むことはそれほど難しくないと思います。本格的な討論をしなくても、授業の進行に合わせて、適当に具体例を考えて意見を聞くだけでも、意味はあると思います。そういうことを、法学、特に実定法の授業に取り入れるのは難しいのではないか、と思います。要件を絞りこんでいない生の事件、あるいはそれに似せたエピソードを紹介して、それに対して学生に素朴な意見を言わせたあと、それらの意見を法学の言葉に翻訳する作業をしないといけないということになりそうですが、そういうことをやっていると、時間がなくなってしまって、教科書のメニューを消化できないので、無理、ということになりそうな気がします。」

大村:「ある訴訟を素材としたとき、法律論としてどんなことを言えるか、ということで法学入門の授業をすることは可能だと思います。生の事件を取り上げて法的なものの中に汲み上げられるものは何で、汲み上げられないものは何か?と考えることは、法学入門ではあまりされていないということは、ご指摘の通りと思います。完結した法体系に導くということを想定しない場面では、具体的な事件を示してこんなことが問題になるのではないかという意見を出してもらうこともありますが、それだけで終わらないのが日本やヨーロッパ大陸の法学のもつ特色だと思います。日本でロースクールが始まったとき、民法は考え方だけ教えればいい、知識はいらないという考えもありました。しかし、ドイツやフランスなど法典国では、膨大な時間をかけます。法典国では、法典とその周りにある法規範について一定の知識が必要と考えています。
 先生は、最初に事件を出して、どうして法的にこういう訴訟になっていくかということを扱う授業が、少なくともメインにはなっていないと言っておられるのですね。」

仲正:「そうです。標準の教科書を終わらせることが、六法の分野が揃った大学の先生方の前提になっているような気がします。それをやった上で、余裕のある学生と先生が、選択科目で具体的な事件を扱うのなら別に構いませんという感覚なのかな、と思います。」

大村:「それが法システムの制約か、教育システムの制約なのかは別として、そういう制約のもとで法学部は教育している点が、他と違うということですね。」

仲正:「哲学や文学、歴史学、社会学などは、学問自体の広がりに比べて大学のカリキュラム上のコマ数が圧倒的に少ないので、いろんなテーマをとびとびに教えることが前提になっていると思います。法学は、法学部という1つの学部をもっていて、主要な法律がカリキュラムに組み込まれていて、体系的に教えるための環境が整えられています。教育者としての学者にとって恵まれた環境だと思います。しかし、法学部の学生は法律家にならない人が多い。東大でさえ半数以下の学生しか、法律プロパーの世界に行きません。法学者にならない人間も含めて、今のような法学教育をするのは、よく考えると不思議な事態だと思います。」

大村:「実定法のある領域について、とりあえず一定水準の知識を身に付けそれが操作できることは、法律家に必要な能力ですが、法学部の学生にはそうした能力までは必要としていない人が多い。専門家にならない人にとっては、完結した知識よりももっと他に勉強することがあるのではないか、ということですね。」

仲正:「そうです。ロースクールができる前後は、その前提の下で、法学部教育をどうするのかと言われていたのに。」

大村:「最近になってまた、狭い意味の法曹養成以外の教育をどうするかが浮上していますので、興味深い議論だと思います。一般の人にとっては、現に紛争に遭遇したらどうするかとか、社会の中に不具合があるとしたら、法的にはどう変えていく筋道があるのか、ということを学ぶことに意味あるのではないかということですね。」

仲正:「問題解決に際して、実定法はどういう態度を取るのかを学ぶことには、法学に直接関係した職業に就かない人にとっても意味があるかと思います。法学と倫理学や政治哲学の思考様式がどう異なるかについて、法学者と話していて、何人かの方から、法律は「答えをはっきり出さないといけない。しかも、決まった時間の中で。」という話を聞いた覚えがあります。裁判を考えると、確かにそうです。いつまでも何が正しい答えかをめぐって議論を続けるわけにはいきません。本当に誰が見ても正しいという答えがなくても、とりあえず一定の時間内に答えを出さないといけない。にもかかわらず、裁判官の決定したことには、権威が伴わねばならない。
 このことについて、3つ掘り下げて考えるべきことがあるかと思います。それらは、法哲学や法学概論で扱うべき最重要のテーマではないかと思っています。1つは、社会の中には一定の時間内に決着をつけなければならない問題がある、ということです。絶対に正しいと言える答えがなくても、結論を出さねばならないことがある。なぜ時間内に決着をつけなければならないか、よく考えると難しいテーマです。問題の性質ごとに、時間のもつ意味が異なってくると思います。実定法の中でも、民法、刑法、行政法でそれぞれ異なっているし、各法領域の中でも異なるでしょう。第2に、論理的・討論的に決着が付かない問題に対して、裁判官が決定すると、そこに権威が生じます。少なくとも、権威が伴っていないといけないと法律家や法学者の多くが思っています。人々が裁判所の決定を受け入れるのは、それが法律だからだというのは、自明の理のようになっていますが、そのことの意味をどこかできちんと考えなければいけないと思います。それを理解することは、法と道徳等の他の規範体系との違いを理解することに繋がると思います。もう1つは、法の権威と、法学における権威の関係です。裁判官の決定が判決として権威をもつことがそのままスライドして、学問としての権威 になると単純に考えている人はあまりいないと思いますが、両者を関連付けて考えている法学者、法学学習者は少なくないと思います。法学も法律それ自体に似た権威をもつべきなのか、だとしたら、それはどうしてか。法学では、法律は「答え」をちゃんと出すものだという前提で授業をすることが多いと思うのですが、その際に、「答え」としての判決・判例の権威を法学が追認し、法学という学問もその権威の形成に参与しているという前提で考えるのか、それとも法学は、既成の法律のそれとは別の「答え」を求めることもあり、その意味で異なる知的権威を志向しているのか、きちんと考える場があるべきではないかと思います。」

大村:「限られた時間の中で暫定的な答えを出す。それが権威によって正統性があるとされる。その思考様式と正統性が、高校を卒業したばかりの人に向けた従来の概論的な法学入門ではわかりにくいということですね。まず裁判がなぜ必要か言わないといけませんが、裁判を取り巻く法学がどういう性質をもつかがわかりにくい、ということだと思います。」

現状編2へつづく

改訂版〈学問〉の取扱説明書

改訂版〈学問〉の取扱説明書 著  者
判  型
頁  数
発行年月
定  価
発  行
 仲正昌樹 著
 四六判
 398頁
 2011年4月
 1,800円(税別)
 作品社

 

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